旧東海道歩きは保土ヶ谷宿に入りました。私は保土ヶ谷にはほとんど縁がなく、電車でも下りたところのない土地です。だから楽しみでもありますし、一見地味な印象の土地ですよね。


前回の神奈川宿で、帷子川の紹介をしましたが、安藤広重の浮世絵は帷子川の様子を描いています。



前回終えたのは保土ヶ谷駅すぐ近くの商店街通り。まずはそこからスタートします。




今まで歩いてきた「品川」「川崎」「神奈川」はいずれも、空襲や地震の被害、戦後の開発で名残はありませんが、この保土ヶ谷あたりから宿場の様子はいろいろわかってくるようになりました。


宿場町は宿場に必要な宿や制度が整えられていました。

本陣、脇本陣、問屋場、助郷、旅籠、高札場などなど。お掃除する人や松の管理をする人もいたみたいですよ。近隣の村は、助郷で人馬を提供したり、荷物を運ぶのを手伝ったりしたみたいです。


この保土ヶ谷宿は、史跡の説明が街全体で細々とされているので、宿場制の基本を知ることができたように思います。

まずは、問屋場跡です。




問屋場とは・・・

江戸時代街道宿場 で人馬の継立、助郷 賦課などの業務を行うところで、駅亭、伝馬所、馬締ともいった(本項の語意に於ける「問屋」とは、運送業を意味する。問丸 を参照せよ)。

業務の主宰者は問屋と称され、その助役の年寄、さらに人馬の出入りや賃銭などを記入する帳付、人馬に荷物を振り分ける馬指などの者がいた。通常の時は交代で出勤するが、大名行列 などの大通行があるときは全員が詰めることになっていた。


ふむふむ、要するに宅急便やレンタカー会社みたいな役目を果たしていたんですね。

歩き始めてすぐにこの看板がありました。続いて、以前神奈川宿で紹介した「高札場跡」の看板がありました。


そしてまたすぐに出てきたのは



「道標」です。道しるべですね。上記の写真は

金沢(八景)、鎌倉道を指し示しているとのことです。これがあるのとないのとでは旅人の不安度も違いますね。当時は地図もないですし、後に出てくる一里塚とこの道標ぐらい、後は景色ぐらいしか目印はないわけですから。実際、ここから左手の小道を歩き、旧道を通ると、鎌倉にいけるみたいです。そちらも是非、今度歩いてみたいです。


ここを超えるとすぐに現代の線路が出てきます。

東海道線と横須賀線の線路です。



少し歩いて交差点を渡ると「本陣跡」がありました。門構えだけだいぶ保存されているようです。この土地で言う「軽部本陣」です。


本陣とは・・・宿場大名旗本幕府 役人、勅使 、宮、門跡 などが使用した宿舎の名となった。 本陣は、宿役人の問屋や村役人の名主などの居宅が指定されることが多かった。本陣に指定されることによって、そこの主人は苗字帯刀 を許され、門や玄関、上段の間等を設けることができ、次第に特権のようになっていた。原則として一般の者を泊めることはできなかった。




実際、ここら辺の家々の表札を見ると、軽部さんがものすごく多かったです。

軽部一族の土地なんでしょうか。






ふと道路に目線をあげると、現在の位置がわかります。今は、国道一号線(今の東海道)にいて、戸塚までは8km、小田原までは49km・・・長い道のりです。

どこかのサイトに江戸時代の人は、どの程度の期間で京都にたどりついていたかの記録がありました。

性別や健脚かどうかにもよりますが、だいたい10日間みたいです。

江戸から経った場合、初日は「戸塚」で宿泊するようです、その場合、翌日は小田原宿です。

なので、一日40kmも歩いていたんですよね。すごいです。。

ちなみにご老人や女性は、戸塚までは遠いので、だいたいここ、保土ヶ谷宿で宿泊していたようです。


続いて、脇本陣の看板です。



脇本陣(わきほんじん)とは、本陣の予備的施設で、大きな藩で本陣だけで泊まりきれない場合や、宿場で藩同士が鉢合わせになった場合の格式の低いほうの藩の宿として利用されるなど、本陣に差し支えが生じた場合に利用された。


そしてすぐに、旅籠の金子屋跡が出てきます。



旅籠(はたご)とは、江戸時代 、旅人を宿泊させ、食事を提供することを業とする家のことである。旅籠屋(はたごや)の略。

旅籠という言葉はもともとは旅の時、馬の飼料を入れる籠(かご)のことであった。それが、旅人の食糧等を入れる器、転じて宿屋で出される食事の意味になり、食事を提供する宿屋のことを旅籠屋、略して旅籠と呼ぶようになった。


保土ヶ谷宿の上記の旅籠は「金子屋」と呼んだみたいです。

さきほど、軽部さんが多いと書きましたが、金子さんも多くてびっくりです。

少し歩くと、宿場のはずれになるのだと思いますが、一里塚跡が出てきました。


この辺は解説がたくさんあって、先述したように宿場の基本を知ることができたように思います。

でも国道一号の騒音と車の往来で当時の面影は創造だにつきません。




写真には「上方見附」と書いてあります。

見附は、宿場の出入り口を示すもので、宿場町には2箇所必ずありました。江戸側の入り口を「江戸見附」、反対を「上方見附」あるいは「京見附」です。番人もいたみたいです。

これがあるということは、宿場のはずれを現しています。


左手には、古い神社発見です。



ここから道は、少し国道を離れて裏道に入ります。





この辺も「軽部商店」などの看板が見えたりして、軽部さん一族を感じました。

突き当りまで歩くと、梅が満開でした。当時の人もこうして歩くと季節を感じていたのでしょうか。



この辺は「元町」と呼ばれています。ここには掲載しませんが、元町は古くから云われのある名称だったということが、看板で書かれていました。

しかし気になるところは、江戸初期はこの辺が宿場の中心だったようです。しっかりとした史料はないそうですが、そのように言われているようです。


さあ、ここからプチ難所となります。その名も権太坂です。





今はまるっきり住宅地ですが、当時は一体の山だったようです。

この坂が結構しんどいため、ご老人、女性は、保土ヶ谷宿でいったん宿泊したのでした。

名前の由来は2つあるみたいですね。そういう看板も出ていました。↓


2説あるが、話の面白さから前者を採ることが一般的である。

  • 旅人( または大名 )が、きつい坂を上り終えて休憩した際、近くに居た耳の遠い老人に坂の名前を尋ねたところ、自分の名前を聞かれたと思った老人が「権太」と答え、広まったという説。
  • 坂の改修工事を手がけた、藤田権左衛門の名から付けられた説。

ここは当時やはり景勝地だったようです。遠くから神奈川湾を一望できたようです。

今は「みなとみらい」です、でも初めて知りましたが、結構眺めがいいのですね。






権太坂は意外に長くてひたすら歩きました。

次に「境木」というところに着きますが、そこからは戸塚宿の領域となってきます。でも、戸塚まではまだまだまだまだ、って感じですが。


では、つづきは「境木」からです。