私が初めて地に足をつけた異国は
ニューヨークでした
22歳の頃だったでしょうか
その年の
バレエのサマースクールを受けるための
ほんの数週間の滞在でした
街を歩いたり公園を散歩したり
教会に入ってみたり
お買い物やレストランで食事をしたり
オフィス街を足早に歩くハンサムな人々
地べたに座る空虚な目の人々
綺麗な革靴を履いて
大通りを行き交う身軽な人々
裏道から突然現れてぶつかりそうになった
大きなゴミ袋を抱えた有色人の人々
ここには何でも揃っていて
夢が叶う国なんだと思いました
何でもある、共存している
そう感じました
だけどお稽古場に行くと
それは違う形で私の身に降りかかりました
そのクラスでは日本人は私1人で、
そして先生は最後まで
私を見ることはなかった
私の順番はいつも一番最後で
先生は最後の私のお稽古はいつも見ずに
次の音を流すために
カセットテープに目をやる
他の生徒達にとっても
そんな光景は日常の事のようでした
お稽古後は皆の着替えが終わってから
更衣室に行こうと思って
その日も待っていたけど
更衣室の鍵はかけられてしまい
私は着替えができない状態のまま
放っておかれた事がありました
廊下にも受付にもたくさん人はいたけど
こんな光景は日常の事のようで
誰も気に留めてなかった
仕方なく私はお稽古着のまま
トウシューズを袋に入れる気も失せて
手にぶら下げたまま
そのままスタジオを出てホテルに戻りました
セントラルパークの横の道を歩いて
信号を待っている時に涙が溢れた
私にはこの街で生きていく力はないんだなと
そんな涙だった
後から聞いた話しでは、
あの先生は日本人が嫌いなんだよ、と
それでもあの先生にお稽古を見て欲しかったら
行ってもいいし
嫌なら別の先生を探す、
自分で自由に決めていいんだよと
その先生は有名なバレエ団の方だったので
教えてほしくて
私が自分で選んだクラスでした
嫌いという事に罪はない
たくさんの人種が共存しているこの国だから
こんな意識も日常的にあると
当時、多様性という言葉はなかったけど
私が行った頃には既に
ニューヨークは多様性に溢れていたんだと思う
だけど、それによる少しの摩擦もあり
22歳の私にはその摩擦は衝撃的で
涙となって溢れたのでした
その国のトップが決まる今日
私がアメリカ人なら彼女を支持したい
それにはちゃんとした理由を2つ持っている
彼女の以前の演説
とても素晴らしくて今でも覚えています
憧れて彼女のニックネームを真似して
私が自分のLINEにつけたのが
「ママミ」
自分の名前を文字ってつけた愛称を
真似してつけてます
すごく気に入ってる
そして彼女を支持するもうひとつ理由
アメリカがまた昔のように
夢が叶う国だと
思えるようになるといいなと思って
今度は私の娘達が
自分の夢を叶えたいと思ったときに
22歳の頃の私のように
向かう先がその国であればいいなと思って
