長い間続けてきたピラティスですが、学ぶことが多いです
器具を使うピラティスで、負荷の強さが変えられるのですが、先生がむしろ負荷を一番弱くして簡単にズルッといってしまうような不安定な状態を作って、そこで姿勢を崩さずに動くというのをもっとやりたいと仰って、それが合う人として私が真っ先に浮かんだらしいのです
実際、私も自分に合うと感じました
姿勢を崩せば何の意味もない運動になってしまいますが、負荷がなく不安定な状態で姿勢を保とうとすると、全身の筋肉をバランスをとりながら総動員しなければならないし、よりコアの筋肉をしっかりと使って支えないといけなくなります
それで気づいたんです
負荷が少ない状態で、心の姿勢を保つということが一番心の真の部分の強さを必要とするのだと
私は心も身体も大きな負荷をかけることに慣れすぎてきました
正常な感覚すら失っていたので、最近はとにかく意識的にブレーキをかけるようにして負荷をかけすぎないようにしていました
そして、今回、適度な負荷でもなく、負荷を極力かけないという発想が生まれました
でも大切なことは姿勢を崩さないことです
負荷のない状態で心の姿勢を保つ
そのためには心の中心にある真の愛・真の調和(神と言ってもいい)の部分の求心力みたいなものがより必要になってくるような気がしたんです
心の表面の筋肉ではなく中心の筋肉を使うことを求められると
逆に言えば、心のインナーマッスルが弱い状態で負荷を軽くすると心の姿勢は簡単に崩れるのだと
負荷を軽くするならば、心の中心の力(愛の力、魂の力、意志の力、使命感etc)が発動されなければ心の姿勢を保つことはできない
そしてその力が育ってきたのであれば、負荷の軽い状態で心の姿勢を保つ練習が心の中心の力を育てることにもなると思いました
禅定において、思考を流れるままにするというのはよく言われていて正しい方法ですが、少し角度を変えて解釈してみると、雑念という負荷をなくし、思考のような外側の筋肉を極力使わない状態で心の姿勢を保とうとしてみる感じもよいかなと私なりに考えました
心の外側の筋肉を使わずに心の中心を意識し続けて心を保つようなイメージです
そう捉えると禅定がやりやすくなったように感じました
そしてもう一つ禅定について言うと、これは正しいやり方ではないかもしれませんが、禅定では想念を放っておくということをしますが、一方で、禅定中はものすごく高度な想念(思い)を抱いている状態という気もしたのです
言葉を超えた、思いの結晶というか
言葉を超えて大切に大切に思うこと
純粋な思いの波動を響かせるような、、、
繊細で緻密な想念
自分の頭では到底許容できそうにない"大いなる何か"をそれでも大切に大切に思おうとすること
自分を超えた自分を思おうとすること
その言葉にはできない繊細な思いを大切に温め、その思いが宇宙へと無限大に広がってゆくようなイメージ...
色々と試しながら禅定も深めていきたいです