李 仲燮(イ・ジュンソプ)通りは、

李 仲燮(イ・ジュンソプ)さんが、朝鮮戦争後の1952年、妻と2人の子供を日本に帰国させた後、一人暮らししながら、人生で一番苦しかった時代を過ごした場所です。李 仲燮(イ・ジュンソプ)通りはそれを知らせるために造成されたもので、彼の人生や作品について紹介しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私はもっと知りたくて新聞記事を要約しました。

長文なので、ご興味のある方だけ読んでくださいね。ウインク

 

「李 仲燮の妻、方子さんのお話」

 

ある日、校庭でバレーをするハンサムな男性が目に飛び込んできました。その姿が目に焼き付いていて、実技を終えて筆を洗っていたら偶然出くわしたんです。その時はにこっと笑っただけでした。こうした縁で互いに愛するようになったようです。

 

方子(まさこ)さんは東京の文化学院でジュンソプ(仲燮)に初めて会ったときのことをこう述懐している。ジュンソプ(仲燮)は背が高くスポーツ万能、歌もうまく、朗らかな人柄で人気があった。
 

文化学院には3人の李姓の学生がおり、その外見から「チビリ」「テカリ」、そして顎が長かったジュンソプ(仲燮)は「アゴリ」と呼ばれた。

 

方子さんに宛てた手紙の中で、ジュンソプ(仲燮)は自身を指す第一人称として「僕」「私」ではなく「アゴリ君」を、ちゃめっ気たっぷりに使っている。方子さんは今も、彼を「アゴリ」と呼ぶ。
 

一方ジュンソプ(仲燮)は方子さんの足の指が白いアスパラガスに「似ている」と言って、妻のことを「あすぱらかす君」と呼んでいた。

 

ジュンソプ(仲燮)は裕福な地主の家庭に生まれた。20歳のとき、東京の帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)に入学。翌年の1937年、自由な校風で知られる文化学院に移った。

 

1939年に文化学院に入学した方子さんも、三井財閥系企業の役員を父に、恵まれた家庭に育った。当時、日本では朝鮮人への差別意識が強かったが、方子さんの両親はクリスチャンということもあり、2人の交際に反対しなかった。

 

1943年ジュンソプ(仲燮)は京城(ソウル)で開かれる美術展への出品の目的もあり、一時帰郷したが、戦況悪化で日本に戻って来られなくなった。

 

しばらくすると米軍の本土空襲が本格化。「このままだと会えなくなる」と恋人の身を案じたジュンソプ(仲燮)は1945年4月、「結婚急ぐ子細文出した」と電報を打った。

 

方子さんの父親は「どこの国の人でも構わないが、絵描きというのが心配だ。いよいよ食べていけなくなったら帰っておいで」と、結婚を承諾。娘のために奔走し、何とか下関行きの列車の切符を手に入れた。

 

方子さんは途中、岡山で空襲に遭い、真っ暗な車内で一晩過ごし、やっとの思いで下関にたどり着いた。だが関釜連絡船は出航しなかった。

 

米爆撃機が投下した大量の機雷で、関門海峡は死の海と化していた。何日間か足止めされた後、博多から玄界灘を越え釜山に渡った。「戦火の中、危険を冒してでも飛んでいってしまうほどアゴリが好きだったから」と、照れ笑いを浮かべた。

 

釜山から列車に乗り京城に着くと、ジュンソプ(仲燮)がゆで卵とリンゴをいっぱい抱えて迎えに来た。「日本では当時、食糧難の時代でしたから、ゆで卵のおいしかったこと。今でも忘れられません」

 

2人は5月、元山のジュンソプ(仲燮)の実家で伝統的な結婚式を挙げた。そしてジュンソプ(仲燮)は、新妻に「徳が南のほうからやってきた」という意味を込め、李南徳(イ・ナムドク)と朝鮮式の名前を付けた。

 

終戦後は、元山での平穏な暮らしの中で2人の息子にも恵まれた。しかし、そんな穏やかな生活は長くは続かなかった。1950年6月に朝鮮戦争が始まった。
 

12月「中共軍が攻めてくる」という話が伝わると、ジュンソプ(仲燮)は慌てて妻と2人の幼子を連れ、元山の港から船に乗って韓国の釜山に避難した。着の身着のまま、替えのおむつもなかった。

 

ジュンソプ(仲燮)一家は翌1951年1月、済州島西帰浦に移り住んだ。家族4人が間借りしたのは、3畳(約5平方メートル)ほどの部屋だった。避難民となった一家に生活の糧はなく、近くの海岸で捕ってきたカニやサツマイモなどを食べて空腹を満たした。

 

それでもジュンソプ(仲燮)や方子さんにとって、貧しくとも西帰浦に住んでいた時代がいちばん幸せだったという。「そんなに苦労とは思わなかったわね。家族水入らずでしょう。それが良かったのだと思います」

 

しかしついに別れの時がやってくる。不安定な避難生活を逃れるため、一家4人で東京の方子さんの実家に身を寄せるつもりだった。しかし当時、日韓に国交はなく、日本国籍のないジュンソプ(仲燮)に渡航許可が出るかが問題だった。

 

そんな折、方子さんの父親の訃報が届いたことや栄養失調で体調を崩していたこともあり、方子さんは1952年、2人の子供を連れて日本に帰国した。

 

ジュンソプ(仲燮)は日本に暮らす家族に頻繁に手紙を送るようになった。言葉を尽くし、愛する妻や2人の愛児に語りかけた。手紙は日本語で書かれ、家族や自身を描いた絵も添えられていた。

 

家族が帰国した翌1953年、ジュンソプ(仲燮)は特別滞在許可を得て、1週間ほど日本で過ごした。これが家族との最後の別れとなった。

 

その後もジュンソプ(仲燮)は日本への渡航を探るが、どれもうまくいかなかった。家族に会えないという絶望感からか、酒に溺れるようになった。家族宛ての手紙も途絶えた。

 

方子さんは当時、安否を問うジュンソプ(仲燮)宛ての書簡を何度も送っている。「最愛なるお懐かしいアゴリ お便りがこなくなってもうどれほどたったでしょうか」

 

ジュンソプ(仲燮)は1956年、失意の中、肝炎と栄養失調のためソウル市内の病院で亡くなった。友人らによって火葬され、ソウル市内の忘憂里(マンウリ)共同墓地に埋葬された。

 

妻の元に訃報を知らせる電報が届いたのは、その死から5日後だった。