本書は著者が29歳から30歳のときの旅の記録である。

内容は真面目な旅行記である。

 

文章からは、良識を持った方なのだという印象を受ける。

ハチャメチャな旅行記ではなく、旅で観たことや感じたことを丁寧に綴った旅行記である。

 

著者が本文で、「ある日、インドへ行こう、と決めた。それも、なるべくなら陸伝いに多くの国をまわって、徐々にインドに近づいて行きたかった。」と述べている通り、本著は、中国から貧乏旅行でインドへと巡る旅について記されている。

 

本書を読んで、まず思ったのは、自由な旅がうらやましい、ということである。

 

「僕にとって、旅は楽しみであるということと同時に、それ以上に、治癒を目的とした行為の意味を持つものなのだと思う。」と述べられている通り、旅が人生に欠かせないものになっているのであろう。

 

また、「見たものや感じたものをそのまま、感じたものを今少し留めておきたいという気持ちに素直になって書き綴るのみである。」と書かれているとおりに、旅をするだけではなく、文章にすることも目的にある。

 

その旅は楽しいことばかりではない。

 

1994年1月の中国。

一枚の切符を求めて気の遠くなるような長い列に並ばされたり、モノを買おうとしてたらい回しにあったり、ぼったくられたり、鼻のひん曲がるような扉のないトイレで大便をしなくてはならなかったり、そんな「もーうんざり」的な経験を幾度とする。

中国でのつらい体験も綴られている。

 

はたまた、ベトナムではとても楽しんでいる様子が描かれている。

ベトナム人の笑顔に癒されたという話である。

なんでベトナム人は笑顔なのか。

ベトナム人は「だって戦争が終わったからだよ」という。

旅をすることはその国の歴史をみることでもある。

著者は深く歴史を批評していないが、著者が受けたその国の歴史であったり文化というものが素直に綴られている。

 

私が強く印象に残ったのは、タイのパンガン島での話である。

オーストラリア人の若い旅人と知り合い、夜の浜辺に寝転び語り合うシーンが描かれている。

オーストラリア人の旅人は「愛することと結婚したい、と思うことはまったく別なものだと感じていた。もちろん、いつかは、いつになるかはわからないけど、その気持ちは一緒になることがあるかもしれない、それもわかっていた。でもそれは、『今ではない』って感じたんだ。」と語るシーンがある。

そして著者は彼の思いに共感を表す。

若いからこそできる自由な発想なんだなと思う。

 

「ただ自由になりたくて、文章が書きたくて、むやみに何もかも捨ててしまって旅に出て、流れるように、というより転がるように生きている。」とシンガポールで述懐している。

 

これを読んだとき、私は自由に旅ができてうらやましいな、と感じた。

また自由な旅を読書を通じて追体験できてすばらしいことだなと思った。

なんて自由な旅はすばらしいのだろう。

 

しかし、著者は、あとがきで、「自分はまだ、ほんとうの自由ではない、そのことを旅の中で激しく自覚した。ただ束縛がないだけの生活は、必ずしも自由だとは言い切れない。自由になるためには、心の底の底の底から欲する、ほんとうの目標というものがなくてはならない、そう思った。」と書いている。

 

自由とは難しいものなのだ。

束縛された人生を、機械の歯車のように生きていているときは、しがらみから逃れて気儘に旅をしたいと思うものである。

しかし、いざ束縛から脱して旅に出ても、何か満たされないものがあるのであろう。

 

著者は旅を文章にするという目標をもって充実した最後を迎えることになる。

 

自由な気風に満ちていて、旅が好きなんだなとしみじみ感じさせる文章である。

どっぷりと沈み込んだバックパッカーではなく、ハチャメチャな旅でもなく、良識を備えたバックパッカーのスタイルが共感をもてる旅行記である。