英文学遠隔講義 Entry No. 2062

 

サマセット・モームの生涯とその意義 (1)

 

此の作家の生い立ちは代表作とも云われている「人間の絆」

の冒頭で述べられている事象がほぼ実際に起った事実と一致する。 1874年1月25日が彼が此の世に生を受けた、所謂誕生日、筆者の誕生日は1935年1月26日だから丸々51年の差である。 父Robert Ormond Maugham と母Edithの間に4番目の息子として生まれた、通称 Willie (ウイリー)は上の兄達とは十歳も隔てていたため、幼い頃の育ちの中で、この兄達との家庭環境には恵まれて居なかった。 つまり、パリにある英国大使館内の職員宿舎に居住していた一家にとって子供達の教育は本国のしかも高級役人としての将来を嘱望されるこれ等兄達は既にロンドンで名門校ケンブリッジやオックスフォードに入るべき教育環境に身を置いていたからである。 物心つく4、5歳の頃に母Edith はウイリーの弟ともなるべき次の出産を控えていたのだが、肺結核のためその子は死産だった。 結局母の病弱ながらの生活の中で、身近に居るたった一人の子供として母の愛情を一人占め出来た事が将来彼の人生を形ち造る環境の始まりであった。 モームの文学への志向性はこの時期に既に芽生え初めていた。 自分の下に生まれる筈の幼児の死産で、暫し母親の愛情に育まれる時期は、その後間もなくその母親自身が結核で世を去るという事態のためにそれ程長くはなかった。 が、しかしそれまでの僅か数年、此の母親を取り巻く生活環境と云うものは余り詳しく述べられている伝記は少ない。 筆者は、此処で Anthony Curtis に依る伝記、 Somerset MaughamISBN 0 297 77367 4, Weidenfeld  and Nicolson, London)から、彼ウィリーが過ごしたこの時期の生活環境に着目し、彼が如何に文学志向の人生を望み、執拗にその道を登り続けたかを、此れからの若い日本の読者と共有して此の稿を展開させて行くとしよう。 先ずその手はじめに、こんな老い耄れの、文学かぶれの老人が、何故に今こうして顰蹙をかいながら、或いは無視されながら、事を語ろうとしているかと云う問いから始めることにする。

 

筆者が意図する事は、一つには今日の社会に於いて文学の果たす役割が如何にモームを語ることに依って多くの分野、つまり多岐に渡る教育論理と話をかみあわせながらの稿の進め方が可能かと強く感じたがためである。

 

多くの書評家が此れまでに云っている事に着目してみると「モームの謎」と云う表現に気が付く。 要するに一生を通じての彼の残した言動の中に研究者たち、翻訳者たちが瞬時に感じる疑問の幾つかは前記の幼児期における環境に起因する事が理解出来る。 そしてそれら幼児期に彼が体験した幾つかの辛い生活体験、時には修羅場と云う表現で語れるであろう、それらの出来事に思いを至らせると云う思考探求が蔑ろにされている様に思えてならない。 それらの幾つかの「謎」と思われる事項を拾いだし、それらの因果関係を探ると、此れは人間が此の世に生を受けて成長する過程に於いての思考プロセスに幾つかのパターンが潜んでいるということの典型が理解出来る事になる。

 

それら多くの因果関係を探求理解して行くため、筆者は次の様な設問を提示する。

 

1.   モームは幼くして自己の出生のルーツは十分意識してい   た筈である。

 

2. つまり今日で云うセレブの家系で、将来は国の根幹に身を置く職業が多分に予測出来る状況があった。

3. それは、つまり、父の、そして祖父の職業が法律の専門家としてその家柄が既に確立している家庭に生まれていたという事実が存在する。

 

4. 八歳年上の兄 Frederic Harbert Maugham は既にその道程に身をおいて、英国の政治の根幹に接近しつつある状況も十分に認識出来得る年齢に至った時期に於いての彼の心境が解かる記述の検出がある。

 

.  その記述とは、かの有名な Summing Up, 第18章に多くが語られている。 若い文学生でこの作家を探求する皆さんと、この章のどの部分にそれが読み取れるかを検討し合うのも良い討議の場をクリエイト出来る筈である。

 

6. やがて、モームは此の青年期、将来の自分の進む生き方に何とか自己を振り向けるためのやり繰りが、回りの取り巻きの思惑をはぐらかして、既に此れだけにはなりたくない、つまりお定まりの自分の家系が継承すべき役職の仕事にはどうしても進みたくない内蔵意識に目安が立った事で歓喜する場面が検出できる。 それはどこか?

 

7. その事にヒントが得られる事象、それは彼のフランスで母やその取り巻きと過ごした幼少の遊び盛りの時期の状況にある。 つまり、叔母のローズや祖母のアンは既に世を去っていたが、彼女達の著作生活に付随する当時の文学趣向の人たちとの密接な生活交流は病弱ながらも母Edithに依って受け継がれていた。 既に何かを語り伝えるという、いわば Story Teller としての性格形成にDNA 的すりこみが始まっていて、それは幼いながら意識の裡に培養されつつあった。 遊び仲間の中で結構機転の利くリーダー格であったと、当時の遊び仲間の言が伝えられている。 

 

8. 彼の幼児期は二つに分けて考察することが出来る。 先ず母と死別する迄の何不自由ない、温もりの中で無心に過ごしたパリ時代。 そして母の死後ロンドンの叔父の家での心の不安と辛さの中での忍従生活である。

 

9. 要するに、作家藤本儀一氏の云う、「人生の早い時期における修羅場の体験」であり、それに打ち勝つ過程に於いて、「転んでも只は起きない」しぶとさ、と更に権威筋に対する侮蔑の念、宗教への不信感などを意識する間に構築される「生への無常観と普遍性」の自己確立がある。

 

10. これ等の哲学観が若くして意識の裡に構築されていたとすれば当然ながら、それらをふんだんに語り伝えるための術は、最早迷いの無い文筆活動に身を置く日常の生きざまに慄然と立向かう彼自身の人生の舞台が既に用意されていたことになる。 

 

上記の10項目は、モームの生涯を探求する上での大きな道標

となる。 これ等の一つ一つを折に触れて述べて行くと、恐ら

く此れまでには語り尽くされなかったこの作家の生涯と彼が此の世に存在した意義が解明されるに異いない。

 

次回に続く           2020. 6. 28 (日)