認識格差の再認識

昨夜NHKラジオ、第二放送で梶谷しんじ教授の講話を聴いた。 カルチュア・ラジオと云う教育番組で、教授はこの講話のなかで熱意をもってユニヴァーサル・デザインの事を話しておられた。 自分自身身につまされる思いで聞いた。 此処数年来人間社会に於いては累積した差別の存在を一生懸命に巷から無くそう無くそうと学術の場で、政治の場で、あらゆる職場で、教育の場で、生活の巷で、各人各様に厭と云う程語り聞かされてきた事に気がついた。 

 

ハードの面では、敷居の高さを平にしたり、車の乗車口の段差をスロープにして車椅子の動きをスムーズにしたり、と多くの事で格差、差別の解消が図られた様に思って、それで良しとしている訳でもないだろうが、実を云うと、人間の意識内に潜む累積された身分とかソシアル・ステイタスに関しては、未だに途半ばで、これは時の経過を待たねばならないのだろうか、と自己認識した訳である。 先ず教育問題に関して梶谷教授はずばり受験制度の事に触れていた。 全国共通試験、此れは正に若い勉学者に選ぶ側の認定の都合で試験を押し付けていることである。 

 

米国のダニエル・グリーンバーグ氏はその事を半世紀も前から意識して、ご自分は物理学博士のタイトルを返上し、サドベリー・スクールを進展させた。 今この、「自由な学び」の促進を地域で進めている人たちが大勢いる。 然し、九割がたの日本人は、否、世界中の多くの若者は、余り快適ではない受験制度で、大学に入る資格を審査されながら夢中で高等教育の場に身を置く事に対峙している。 それを推し進めるのは国の文部行政を司る権威筋である。 正に差別と格差の解消を提唱しながらその逆を平気で実施している形が人々の意識から離れない訳である。 梶谷教授は東京大学で教鞭を執られている。 学識の格差なんて無い。 後何年? カタツムリの歩の様に見えて、割とその速度は増しているのかな。