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jongchan大好き in Ameba

韓国の歌謡能力者キム・ジョングクに落ちてます。。。

父の法事に行ってきました。

私は、そこで重大なミスを…。


出発は早かったのですが、判断ミスで、ご法事に遅れてしまいました。


おまけに慌てたので、お数珠まで忘れていました。故郷に向かうまでバタバタと直前に準備したのと、睡眠不足と7時間の満員電車の旅の疲労で判断力が鈍っていたのは、事実ではありましたが、あり得ない失策の数々。


が、お数珠は、恥ずかしいだけで、すみますが、遅刻は、本当にダメでした。


幸い、ごく身近の会でしたが、お寺さんは、予定も詰まってるし、遠くから来てくれたおばたちに、大変申し訳なかったです。また、喪主(法事でも喪主と言うのでしょうか?)である、弟夫婦が忙しい中、遠くから、怠りなく準備をしてくれたのに、顔を潰してしまい、申し訳なかったです。

おばの1人には、ものすごく怒られましたが、当然だし、ありがたいと思いました。


でも、お経をあげていただいている間、こう言うことに厳しかった父のことが思い出され、こんな年になっても、父の望む最低限のことも出来ないかと思い、また、昔を思いだし、年甲斐もなく、涙が出てきてしまいました。

法話ではやはり大震災の話が出ました。小さいお寺さんたち、若いお寺さんたちが、集まって、被災地の畑をお手伝いされたような話も聞きました。


お寺のほうはそれでも、無事終わり、会食に向かいました。準備をきちんとしてくれていたので、移動もスムーズです。大きいお寺さんと小さいお寺さん、おばたち、私たち兄弟それぞれの家族。


お寺さんたちが帰られた後は、昔の身内の話なども出ました。末のおばが一人で祖母の実家の分家に疎開していた話、


まだ小学生だったおばがさびしくて毎日泣いていたので、長兄の父が時々泊まりに行って、何時間も歩いて登校していた話、


いよいよ、戦争が激しくなって、残りの家族も疎開することになり、分家では手狭なので、本家に行った話、


おかげでギリギリ大空襲にはあわず、家は、無くなったけど、全員無事で生き残れたが、その祖母の実家(本家)の兄嫁が大変な人だった話。


初めはお兄さんの家族と食事を一緒にしていたが、自分たちはご飯もたべ、おかずを食べていても、一度も分けてくれたことはなく、薄い芋粥を食べさせられていて、父たちは、とうとう栄養失調で口の中がぶつぶつだらけになってしまったそうです。これは以前に祖母に聞いていましたが、お金はもちろん、いろんなものを苦労して集めて持っていったのに、そんなことになって育ち盛りの子どものために、悔しかったと言ってました。


それで医者に行って、また怒られた話。


とうとう台所を別にさせてもらって、祖母や学生だった(年齢を引き算したら、今の小中学生ですね!今、びっくりしました)父も駆けづり回って、妹たちにご飯を食べさせてくれたけど、その食べ物を本家に入れないと、怒られた話。自分たちは十分に食べて着ているのに、本当に悔しかったそうです。


復員した祖父も亡くなり、父の代になってから、祖母の本家のお兄さんも亡くなりました。そうしたら、町中の噂になるほどの争いが起きたそうです。どうしようも無く、骨肉の争いになったので、どなたかのとりなしで、従弟従姉妹たちのことだから、と父が中に入ったそうです。おばはどちらにも恨まれるだろうに、よくしてもらった事もない本家になんで?と、間に立った人に腹が立ったそうです。

本家の方々にも言い分はあるのでしょうが、口は悪かったが、愚痴とかは言ったことの無かった父なので、知らなかった話をたくさん聞きました。まるで、小説のようでしたが、体験したおばたちの話なので、鳥肌がたちました。

父の事をさらに思い出す法事になりました。
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うちの母は、私が10歳の時に亡くなりました。それまでも、家業も忙しく、下の妹も生まれて、かかりきりだったし、祖父母も同居だったので、母とふれあうこともあまりありませんでした。

近くに叔母(母の実妹)も住んでいたのに、ほんの時たましか会いに行けないくらいでした。

それでも、クリスマスになると、時間をみつけては、編み物をして、手編みの帽子とかをくれました。


でも、私は、友達がもらった既製品の服や、可愛い人形をうらやましがり、たいして嬉しがりもせず、時には母に当たったりしました。


そして、ついに学校の作文以外は、母の日のプレゼントをあげる事もしませんでした。母の日の少し前に私の誕生日があるのですが、母が忙しすぎて、祝ってもらえなかったから。はじめて誕生日を祝ってもらったのは、母が亡くなった年に祖母の様子を伺いにきた父方の叔母がケーキを作ってくれた時。友達と同じように誕生日を迎えられて、嬉しかった。


本当は、母を独り占めできる時間が欲しかったのかもしれませんね。


幼かったとしか、言いようがありませんが、亡くなる前も、亡くなったあとも、今でも、いっぱい話したいことがあった。


プレゼントだって、今なら、靴下はもちろん、スカーフ、手袋、セーター、マフラー、何だってあげたい。


もちろん、私は、ひねくれてるから、きっと、素直に可愛くは、プレゼントしてないでしょうけどね。


最後に、これは、ほんとうに嫌な母の日の想い出ですが、幼稚園の時に母が亡くなった妹。行事は、脳溢血の後遺症を抱えながら、祖母が出席していたし、友だちも多い妹は、そう不幸せでもなく、幼稚園から小学校生活を過ごしていたのですが、ある時、泣いて帰ってきました。


当時は母の日には、赤いカーネーションの造花が配られて、作文を書き、お母さんに読んであげると言う事が行われていたのですが、妹は、カーネーションをもらえなかったと。


なぜなら、お母さんが亡くなっているときには、白いカーネーションだが、白いカーネーションの造花が無いので、造花は無しで帰されたと。しかも、それを言ったのが、先生だと言うことでした。

ほんとうに情けなく、悲しかったです。


あ、母が生きていたら、韓国に一緒に連れていきたい。娘と行ってもけんかになるし、きっと喧嘩したでしょうが、美味しいものも食べて、バッグも買って、文化遺産も見物して…。


そうなると、キム・ジョングクどころでは無さそうですが…。





タビオ “母の日フェア”



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