私たちの選択の背後にある心の働きを、哲学者アルフレッド・ミール教授の「ルーレット・ホイール・モデル」をもとに分析いたします。

著者アルフレッド・ミール
出典The Philosophers' Magazine

 

森の中をゆったりと散歩しておりますと、道が二手に分かれている場所に差し掛かります。あなたは少し立ち止まり、どちらへ進むか考えた末、右へ行くことを決めました。

 

一部の哲学者によりますと、このとき自由意志が働いていたのなら、あなたは別の行動をとることもできたはずだということです

 

哲学者は理論的な問題に慎重な立場をとることが多いです。「右へ進む」と「左へ進む」のどちらを選ぶかは、それぞれ異なる精神的な行為であります。また、決断を今より30秒遅らせてから右に進むこともできたかもしれませんし、引き返したり、その場に座り込んだりする可能性もありました。

 

ここで重要なのは、もし右へ進むと決めたときに本当に「自由」だったのなら、まさにその瞬間に別の行動を選択することもできたはずだ、という点であります。

「別の選択肢」はありえたのか?

一部の哲学者は、私たちの宇宙とまったく同じ過去と自然法則をもつ「仮想的な宇宙」が存在すると仮定した場合、その宇宙ではあなたが異なる選択をしている可能性があると考えます。例えば、私たちの宇宙では正午に右へ進む決断をしたとしても、別の宇宙では同じ正午に異なる選択をしているかもしれない、というわけです。

私はこのような「異なる現実が存在しうる」という考えを、「開放性(Openness)」と呼ぶことにいたします。

少なくとも一部の意思決定において、この「開放性」はあなた自身の経験とも合致するのではないでしょうか?おそらく、あなたの答えは「はい」でしょう。

ここで申し上げたいのは、別の宇宙を実際に経験するという話ではございません。私の問いは、「あなたが何かを決める時、過去や自然法則が変わらないまま、別の選択をする可能性があったように感じることがあるか?」ということです。

おそらく、あなたの答えは「ある」となるはずです。

ルーレット・ホイール・モデル:開放性が意思決定にどのように作用するのか

何をするべきか迷っているとき、私たちの「信念」「欲求」「願望」「希望」「習慣」「理性」などが、脳内の小さな「ルーレット・ホイール」に投げ込まれます。このホイールには無数のスロット(枠)があり、それぞれ異なる選択肢を表しております。例えば、200のスロットが「左へ進む」決断を示し、別の200のスロットが「右へ進む」決断を示しているかもしれません。さらに、どちらへ進むかを考え続ける選択肢が500のスロットを占め、残りの100のスロットには「引き返す」「座り込む」といった選択肢が割り当てられております。

このホイールが回転いたしますと、小さな神経的な「ボール」がその上に落ちます。そして、ボールがどこに落ち着くかによって、最終的な選択が決まります。例えば、「右へ進む」と決めたり、「もう少し考え続ける」といった行動をとることになります。ある選択肢が500以上のスロットを占める場合のみ、隣り合うスロットが同じ結果を示します。

このスロットの分布を決定いたしますのは、「信念」「欲求」「理性」など、私たちの心理的要因であります。



 

私は、このモデルが意思決定のプロセスを唯一説明できる方法だと主張するつもりはございません。しかし、このモデルを通じて、「開放性」の本質をより深く理解する手助けができるのではないでしょうか。このモデルが示唆いたしますのは、正午に右へ進むと決めたことは、ある程度「偶然」に左右されていた、ということです。ボールがスロットに落ち着くまで、他の選択肢が選ばれる可能性も常に存在していたのであります。

開放性がもたらす選択の例

「開放性」という考え方は、ときに恐ろしいものに思えるかもしれません。例えば、ある大統領が「核攻撃を命じるべきではない」と考えつつも、ためらいながらもその可能性を検討しているとしましょう。目の前には発射ボタンがあり、それを押すという選択肢が彼の「ルーレットの盤面」にいくつか存在しています。彼も承知のとおり、ボタンを押せば第三次世界大戦が勃発するかもしれません。

 

もう少し身近な例で考えてみましょう。ジョーという青年がいます。彼は数ヶ月前にカンニングが発覚して大学を退学させられ、両親にも勘当されました。現在は生活に困窮し、なんとか生計を立てようともがいています。ある日、酒場で自分の不幸を嘆いていると、見知らぬ男が銃を売ろうと持ちかけてきます。「この銃があれば、すぐに大金を手にできるぜ」と男は言います。

 

ジョーのルーレットが回り始めます。彼は今まで犯罪を犯したことも、銃を持ったこともありません。しかし、彼の心には「可能性」が開かれています。ジョーは銃を買うことを決めました。しかし、まったく同じ過去を持つ別の宇宙では、彼はこの誘いを断っているかもしれません。

 

数日後、ジョーは銃をどうするか考え始めます。少しの利益を得るために転売しようか?ルーレットの盤面が回ります。そして彼は「しばらく手元に置いておこう」と決断します。しかし、もしボールが隣のスロットに落ちていたら、彼は銃を売っていたかもしれません。

 

それから1週間後。ジョーは家賃の支払いに困り、再び銃のことを考えます。ルーレットが再び回転し、今度は「町の小さな商店で銃を使って脅し、金を手に入れる」という選択肢にボールが落ちました。彼の計画は「脅すだけで、実際には撃たない」ことです。

 

しかし、物事は計画通りに進みません。ジョーがレジ係を脅していると、相手がカウンターの下に手を伸ばすのが見えます。武器を取り出そうとしているのかもしれません。ジョーの頭の中で「逃げるべきか?」という思考がよぎり、ルーレットが回ります。そして、彼は威嚇のために発砲することを決めました。しかし、緊張と焦りで手が震え、誤ってレジ係の手を撃ってしまいます。

もしほんの少し状況が違っていたら、結果はまったく違っていたかもしれません。

偶然がもたらす選択と道徳的責任

ここで、ジョーの話を一旦置いて、脳科学について少し触れてみましょう。一部の科学者は、人間の行動に影響を与える「非決定論的な脳のプロセス」の証拠を発見したと考えています。非決定論的なプロセスは、本質的に「複数の異なる結果が生じる可能性を残している」のです。

 

では、再びジョーの話に戻りましょう。彼は不運が続き、いくつもの誤った決断をしました。しかし、彼は決して冷酷な犯罪者ではなく、完全に悪人というわけでもありません。銃を買わないという選択もできたし、買ったとしても売却することもできた。そして、もしルーレットのボールがほんの少し違うスロットに落ちていれば、彼はより良い決断をしていた可能性もあるのです。

 

では、ジョーの不運は彼の責任を軽減するでしょうか?彼の道徳的な責任はどこまで問われるべきなのでしょうか?

これらの問いに明確な答えを出すのは難しいですが、ジョーの内面に目を向けることで、真実に少し近づくことができるかもしれません。

コントロールの幻想:偶然を「開放性」の本質として受け入れる

前述の「ルーレットの輪」のモデルにおきまして、人の信念、欲望、願望、希望、習慣、論理的思考などはすべて、その人の精神的な「輪」に影響を与え、スロットの内容を決定いたします。これらは、過去の意思決定や行動によって形作られ、変化してまいりますものです。

人は、失敗や成功から学び、その経験が次の意思決定の際に「輪」がどのように分割されますかに影響を与えます。そして、自己改善の努力もまた、この「輪」に変化をもたらします。例えば、禁煙を1年間続けられました方は、今タバコを吸いたくなったとき、1年前とはまったく異なるスロットの分布を持っておりますはずです。先延ばし癖や過食を克服するために努力を重ねてこられた方も同様でございます。

こうした観点から見ますと、ジョーの「輪」の構成や彼の意思決定には、彼自身の責任が大きく関与しておりますと考えられます。彼は長年にわたって自分の「輪」を形作ってまいりましたのですから、そこに偶然の要素が含まれていましたとしても、それだけで彼の責任が完全に免除されるわけではございませんかもしれません。

一方で、人によっては「開放性」を持ちながら、なおかつ偶然の要素を完全に排除した意思決定をしたいと考える方もいらっしゃるかもしれません。このような人々は、意思決定に対する完全なコントロール、つまり「魔法」とでも呼ぶべきものを求めるかもしれません。しかし、そのようなコントロールは不可能でございます。なぜなら、偶然を排除した上での不確定な意思決定というものは、そもそも矛盾しておりますからであります。

ジョーが銃を買うかどうかを決めたとき、彼はその瞬間まで「買わない」という可能性を持っておりました。それが「開放性」の本質であり、偶然が不可避な要素であることを示しております。

自由意志は「偶然」と「スキル」の組み合わせ

「魔法」のような完全なコントロールを信じる人々は、ジョーには自由意志も道徳的責任もないと結論づけるかもしれません。しかし、私たちの中には「開放性」と自由意志が共存できるのかを考える人もいるでしょう。

私自身、この疑問について著書『Free Will and Luck』の中で考察しております。私は必ずしも自由意志に「開放性」が必要だとは思いませんが、それでも「運」という概念が自由意志や道徳的責任を脅かすように感じることがございます。

実は、この文章で「運」についてさらに別の観点から議論するかどうかを決める際、私はコインを投げることにいたしました。そして、その結果に基づきまして、「開放性」についての議論を続けることにいたしましたのです。

意思決定における「悪い運」を最小限に抑える

多くのゲームでは「運」と「スキル」が組み合わされております。例えばブラックジャックでは、プレイヤーはディーラーと対戦いたしますが、ディーラーの動きはルールによって決められております。一方、プレイヤーには選択肢がございます。たとえば、ヒット(カードを引く)、スタンド(カードを引かない)、特定の状況でのダブルダウン(賭け金を倍にする)、ペアをスプリット(2つの手に分ける)といった判断が可能でございます。どのカードを引くかは運次第でございますが、熟練したプレイヤーは最適なタイミングでヒットやスタンドをするための表を暗記し、それに従ってプレイいたします。また、さらに高度なプレイヤーは出たカードを記憶し(いわゆる「カードカウンティング」)、戦略を適宜調整してまいります。

自由意志もまた、「運」と「スキル」の組み合わせによって成り立っている可能性がございます。合法的なブラックジャックにおいて運が不可欠な要素であるように、「開かれた選択」における運もまた、自由な意思決定をするために必要な要素なのかもしれません。しかし、ブラックジャックでは運が排除できないのに対し、自由な意思決定をする個人は、自らの人生において運の影響を最小限に抑えることが可能ではないかと考えられます。

ブラックジャックのプレイヤーが勝率を最大化するために、「悪い運」の影響を減らし、「良い運」の影響を増やそうとするのと同じように、私たちもまた「開かれた選択」における運をコントロールし、自らの目標を達成する可能性を高めることができるかもしれません。そのための一つの方法は、誘惑に打ち勝つスキルを極限まで鍛え、最終的には「自分が最良と判断した決断と矛盾する選択肢」が存在しない状態にまで到達することです。

もし、右の道と左の道のどちらを選ぶべきか判断できないなら、それぞれ50%の確率で決定される「意思決定の輪」を受け入れるのもよいでしょう。しかし、「明らかに左に行く方が良い」と分かっている状況で、右へ進む可能性が残されている意思決定の輪を使うのは危険であり、避けるべきでございます。

 

意思決定の「輪」を自在に操る

合理的な人々は、失敗や成功から学び、自己改善の努力をするものでございます。そして、自由意志をルーレットの輪のようなものと考えるならば、これらの努力は意思決定の輪の構造そのものを変化させる力を持っております。

ローリング・ストーンズの「ギミー・シェルター」には、「戦争はすぐそこまで迫っている(War is just a shot away)」という警告がございます。これと同様に、「開かれた選択」を持つ意思決定者にとって、「破滅的な決断」はほんの一歩手前にあるかもしれません。

しかし幸いなことに、自らの「輪」を形作ることができる意思決定者は、完全に運や偶然の支配下にあるわけではございません。そして、適切な努力を重ねることで、「極端に悪い決断を下す可能性がゼロの意思決定の輪」を作り上げることも、決して不可能ではないのかもしれません。