著者:カロリーナ・フローレス
出典:The Philosophers' Magazine
 

私は都会の人間です。20代前半でニューヨークに移り住んで以来、自分のことを都市生活者だと強く認識するようになりました。誰かが大都市の欠点を指摘すると、私はついムッとしてしまい、彼らの意見に問題があることを証明しようとします。指摘された点を別の視点から解釈し直したり、「それは特定のケースに限る話だ」と反論したり、「そもそも大した問題じゃない」と切り捨てたりします。すべては、「都市で暮らすことは素晴らしい」という、自分のポジティブな見方を守るためです。

 

これは、私が「アイデンティティ防衛的な思考(identity-protective reasoning)」と呼んでいるものの一例です。つまり、「自分は都会人である」というアイデンティティを守るために、都市生活を肯定するような考え方を無意識のうちに選んでしまうのです。
 

実は、こうした思考は私たち全員が日常的に行っているものです。そして多くの場合、それほど大きな害にはなりません。せいぜい、郊外に住む両親とちょっとした口論になる程度でしょう。
 

一見すると意外かもしれませんが、私はこの「アイデンティティを守ろうとする思考」が良い方向に働く場合もあると考えています。たとえば、自分が信じている「真実」に反する誤った情報に日々さらされているとしたら、ある程度防衛的になるのは悪いことではありません。
 

実際、私たちは「黒人は犯罪者だ」「クィアな人々は精神的に不安定だ」「労働者階級は怠け者だ」といった、偏見に満ちた誤情報を絶えず浴びています。こうした中で、「黒人であること」「クィアであること」「労働者階級に属していること」といったアイデンティティは、そうした偏見を鵜呑みにせず、冷静に情報を吟味しようとする姿勢を私たちに促してくれます。
 

しかし一方で、アイデンティティを守ることが間違った方向に働くことも少なくありません。明らかに根拠のない主張でも、アイデンティティと強く結びついてしまうと、人はそれを頑なに信じ続けてしまうのです。
 

たとえば、反ワクチン運動を見てみましょう。「ワクチンは危険だ」という主張が、「共和党支持者」「体制に反対するヒッピー」「保守的な母親」といった特定のアイデンティティの一部となっていることがあります。そうなると、たとえ科学的な証拠が反対を示していたとしても、その信念を手放すことができなくなってしまうのです。
 

同じように、「白人としての人種的アイデンティティ」を守ろうとする気持ちが、人種平等を裏付ける証拠を否定する方向へと人を導くこともあります。「男らしさ」に対する執着が、肉食をめぐる倫理的な議論を退ける動機になることもあります。また、国家の誇りを保つために、自国の過去の加害の歴史を無視したり正当化したりすることもあります。
 

このように、「アイデンティティを守ろうとする思考」は、私たちを真実に近づけることもあれば、遠ざけてしまうこともあるのです。では、私たちはどのようにすれば、こうした思考の悪い側面に陥ることなく、その良い側面を活かしていけるのでしょうか?

アイデンティティと環境の関係

アイデンティティを守ろうとする思考(identity-protective reasoning)が有益かどうかは、私たちがどのようなアイデンティティを守っているかによって変わってきます。そして、そのアイデンティティ自体は、状況によって変化しうるのです。
 

たとえば、私自身が「都会派」になったのは、ニューヨークに移り住んでからのことです。もともとは都会に対して中立的な立場でしたが、今では都市生活を誇りに思い、その良さを擁護するようになりました。とはいえ、仮に私が田舎町に引っ越して、そこで素晴らしい人間関係と満足のいく生活を得られたとしたら、都会にこだわる気持ちは自然と薄れていくかもしれません。むしろ、田舎の良さ――新鮮な空気、静けさ、自然の広がり――を語るようになるでしょう。

 

このように、私たちの環境が大きく変わると、自己認識そのものが変化し、それに紐づいた信念への執着も自然と手放されることがあります。結果として、より柔軟な思考や幅広い視野を持てるようになるのです。一方で、新しい環境や共同体に身を置くことが、新たなアイデンティティへの強い同一化を生み、別の閉鎖性を生むこともあります。

ソーシャルネットワークとコミュニティの影響

私たちのアイデンティティが完全に外部から決められるものだとしたら、それについて考える意味はありません。しかし実際には、私たちはある程度、自分自身のあり方や所属感覚を選ぶことができます。その手がかりのひとつが、人間関係やコミュニティの変化です。

 

どのような人々と関わっているかは、私たちがどんな情報に触れるかに直結します。異なる立場の人たちと会話することで、多様な視点に出会うことができます。一方で、似た考えの人たちだけで構成されたネットワーク――いわゆる「認識のバブル(epistemic bubble)」――の中にいると、自分の信念を補強する情報ばかりが流れ込むようになります。

 

この点は多くの人がある程度理解していますが、見落とされがちなのが、ソーシャルネットワークが私たちの「自己認識」自体にも影響を与えるということです。あるコミュニティは、そこに属する人のアイデンティティに深く関わり、その結果として特定の信念に対して閉鎖的になる傾向を強めることがあります。

 

認識のバブルを打破したいなら、単に多様な情報を提示すればよいと思われるかもしれません。しかし、それだけでは不十分です。なぜなら、多くの人は新しい情報に対して防衛的な反応を示すからです。より根本的な変化を促すには、その人の所属ネットワークや自己認識の再構築が必要なのです。

異なるグループとの接触がもたらす変化

自分とは異なる社会的アイデンティティを持つ人と関わることは、自分たちとの共通点を発見するきっかけになります。それによって、固定化されていた自己認識が揺らぎ、新しいアイデンティティを受け入れることができるようになります。ただし、こうした変化は、尊重や協力、好奇心に基づいた健全な関係性の中でこそ起こります。

 

たとえば、企業の合併がうまくいくケースでは、従業員は以前の小さな会社への帰属意識を手放し、新たな統合企業へのアイデンティティを形成します。その結果、社内のコミュニケーションがスムーズになり、職場環境も安定するのです。

 

新しいアイデンティティは、それまでの所属感を完全に塗り替えることもあれば、既存のアイデンティティに追加される形で共存することもあります。たとえば、大学入学によって「学生」という新たな自己認識が加わるのが典型的な例です。

 

いずれにしても、新しいアイデンティティを持つことで、それ以前のアイデンティティを盲目的に守る必要性が薄れ、自己のさまざまな側面のバランスを取ることが求められるようになります。そして、場合によっては過去のアイデンティティそのものを守ろうとする動機が消えてしまうこともあります。

 

分断された政治的思考を超えるために:共通のアイデンティティの構築

とりわけ深刻な形のアイデンティティ防衛型思考に、「政党に基づく動機づけられた推論(partisan motivated reasoning)」があります。これは、自分の政治的立場(例:保守派・リベラル)を守るために都合の良いように考えてしまう傾向です。

 

政治学者リリアナ・メイソンの研究によれば、近年では同じ政党を支持する人々が同じようなコミュニティに集まり、反対政党の支持者とはほとんど交流しないという「社会的分断」が進んでいます。その結果、共通する非政治的なアイデンティティ(同じ地域に住む、同じ職業に就く、同じ学校に通う等)が消え、政党というアイデンティティが自己認識の中心となってしまうのです。

 

このような状況では、政治的信念を守ることが自己そのものを守ることと直結しており、対立がより深刻化します。

 

しかし、異なる政党支持者同士が共通のアイデンティティを持つようになれば、こうした分断は和らぎます。実際、民主党支持者と共和党支持者が何らかの重要なアイデンティティを共有している場合、その人たちは政治的に偏った思考に陥りにくくなるという研究結果もあります。

 

だからこそ、私たちは党派を越えたネットワークを築き、共通のアイデンティティを育む場を増やしていく必要があるのです

サブコミュニティと社会運動に関する研究

異なる集団間の接触を通じて、より包括的なアイデンティティを築くことは、防衛的な思考を和らげるうえで効果的です。しかし、それだけでは十分ではありません。私たちはまた、古いアイデンティティを手放した後に受け入れることのできる、前向きな新しい社会的アイデンティティを用意する必要があります

 

さらに、差別的な情報や偏った証拠(たとえば、社会的に周縁化されたグループの劣等性を示すような情報)に対抗する役割を果たすアイデンティティも重要です。このような新しいアイデンティティの形成において、サブコミュニティや社会運動は大きな役割を果たします。ある運動が明確に「新しいアイデンティティの創出」を目指す場合もあります。
 

たとえば、1956年のモンゴメリー・バス・ボイコットを主導したマーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、この出来事を「新しい黒人(New Negro)」というアイデンティティの誕生と捉えました。そこでは、人々の尊厳、自分の運命、自己尊重への認識が大きく変化したのです。
 

また、新しいアイデンティティは、共通の目的を目指して人々が協働する過程で自然に生まれることもあります。一緒に何かを成し遂げる経験は、共通点への気づきを促し、それが新たな自我の一部となることがあるのです。
 

社会運動やサブコミュニティは、こうした新たなアイデンティティを創出するだけでなく、そのアイデンティティを構成員に根付かせる働きも持ちます。たとえば、ある人が新しいコミュニティに参加することで、これまでの「受動的な被害者」ではなく、「自ら行動する活動家」という自己像を持つようになるかもしれません。1970年代のアメリカでは、多くの白人女性が「主婦」ではなく「フェミニスト」としてのアイデンティティを前面に出すようになったという例もあります。

アイデンティティの変化が思考・認知に与える影響

社会的アイデンティティの変化は、思考様式にも変化をもたらします。たとえば、労働組合運動を通じて白人性や男性性への強い帰属意識を手放した人は、人種やジェンダーに関する問題に対して防衛的にならず、むしろ敏感になっていくことがあります。

 

黒人であること、フェミニストであることなどの新たなアイデンティティを受け入れることで、人は社会的不正義に対してより鋭敏になり、現状維持を正当化する欲求が弱まるのです。
 

また、アイデンティティの変化は、どの信念を「絶対に守るべき真実」と見なし、どの価値観を新しい証拠に基づいて更新すべきかという判断にも影響します。個人的な信念は単なる理屈だけではなく、社会的なつながりとも深く関係しているため、純粋な論理だけで人の考えを変えることは難しいのです。人の認知を変えるには、その人の属するコミュニティや人間関係といった「社会的構造」そのものを変える必要があるのです。

思考とアイデンティティの変化における哲学の役割

では、哲学的思考はこのような変化にどう関与できるのでしょうか?

 

一般的に、哲学は人々の思考を変えるために2つの力を持つとされています。ひとつは、論理的に筋の通った議論を提供すること。もうひとつは、論理的思考や誤謬を見抜く力を育てることです。

 

しかし、防衛的な思考に陥っている人にとっては、これらの力もむしろ「自分の立場を守るための道具」になってしまうことがあります。批判的思考があればあるほど、逆に自分の偏った信念を正当化するのが上手くなるかもしれません。こう考えると、哲学は逆効果なのではないかという悲観論も出てきます。

 

けれども、それはあまりにも悲観的な見方です。正しい論拠や論理的思考が単独では十分ではないからといって、それが無意味であるわけではありません。人々に「納得して思考を変えてもらう」には、やはり説得力ある議論が必要です。そのうえで、人々がその議論を受け入れられるような心理的・社会的土壌も整える必要があります。ここに哲学の本質的な力があるのです。

 

哲学者のジェニファー・モートンが指摘するように、哲学とは単なる論理訓練ではなく、「想像力を使う営み」でもあります。プラトンが描いた「洞窟の比喩」や、デカルトが唱えた「他人は全員ロボットかもしれない」という思考実験、あるいはロールズが提唱した「無知のヴェール」などは、現実とは異なる世界を想像するよう私たちに促します。
 

これらの思考実験は、「今の世界のあり方は決して必然ではない」ということに気づかせてくれます。そして、別のあり方を想像し、それに基づいて新たな価値観や人間関係を築いていく可能性を広げてくれます。
 

さらに、哲学的思考を通じて、私たちは他者の視点から考える力を養います。相手の価値観や世界の見方を理解しようとすることで、自分自身のアイデンティティを再構築する契機にもなり得るのです。
 

このように、哲学は個人だけでなく集団においても、「新しい生き方の実験」の場を提供してくれます。新しい関係性、新しい自分、新しい価値観を模索する手段として、哲学は私たちの社会変革を支える力となるのです。

 

つまり、哲学を通じて、より公正な社会に近づくことができるかもしれないのです