五(2020、秋)
自宅に帰って、バスタオルの上に息絶えた身体を横たえたときには、晶はへとへとになっていた。見れば、床の上には、点々と泥の足跡がついている。樹は裸足であり、泥で汚れたまま晶についてきたのだから、当然ではあった。
「汚れを落とさないと、傷も見れないな……」
晶はため息をつくと、床の掃除は後回しにして、バスルームで樹の服(というか、ぼろきれ)を脱がせた。樹は抵抗もせずされるがままになっていた。
服を脱がせてみると、ますます、樹は人間めいていた……
多少晶たち在来人よりも肌が浅黒くはあるが、尾もなければ毛皮もない。漆黒のたてがみ、というより髪というべきものは真っすぐに長く伸び、背の中ほどまでかかっていた。ただ、その背骨も四肢も複雑に折れ曲がり、皮膚の下には数限りない盛り上がりがあって、あたかも創造主が人間を両手の中にいれてぐちゃぐちゃに揉みしだいた結果のようにも見えた。
歪んだ顔貌の中で、双眸が黒ぐろと光る。どんなに光に透かしても、黒でしかない黒、墨色……
「あきや、なに」
シャワーの温度を調整しながら答える。「泥だらけだから、まず洗うからな。泥が傷に入っちまうかな……あっ、そうか」
先に気づけばよかった。怪我をしているなら、受血してしまえばいい。傷に汚れが入る心配もなくなる。晶は、ためらいなく自分の指を鋭い歯で咬み破ると、樹の口元に押しつけた。
「こえ、なに……や、あきや」
「なにおまえ、受血も知らないの。怪我してるだろ。飲めよ」
「や、のむ、や」
「嫌、じゃないよ。傷にばい菌入るだろ。わがまま言わないで飲めって」
そうこうしているうちに、血が固まり、傷が癒えはじめた。そういえば、今日は恵梨花から受血しているのだった。傷の治りが早い。
「強情なやつだな」
シャワーが降り注ぐ中、片手を樹の首に回して捕まえ、簡単に血が固まらないように反対の手首の動脈を切り裂く。「いてて……ほら、おまえのためにやってるんだぞ。飲めってば」
頭を抱え込むようにして、唇に傷を充てがう。最初抵抗していた樹だが、口に血液が触れたとたん、目の色が変わった。
「え……」
どっ、と背中に衝撃が走った。何が起こったか分からないうちに、晶はバスルームの床に組み伏せられていた。小柄なくせに樹の力は強く、押しのけるより先に樹がのしかかってくる。
「いっ、痛っ……」
手首の傷に樹が歯を立てていた。在来人の鋭い犬歯とは異なり、鈍く丸い歯ではあったが、その分噛み締められると痛みが強く、晶は樹の髪を引っ張った。「馬鹿っ、バカ!! 噛むな! 痛いだろっ!!」
その言葉が聞こえたのか否か、樹は口を開けた。「はっ、はあっ、はあっ……」興奮した犬のように息を弾ませ、樹は身体をこすりつけてきた。「おいひ……おいしい……あきや。あきら。おれ、これすき」
「そうか、良かったな。もっとゆっくり飲めよ」
言いながら、あれっと思った。
口の中に何かを含んでいるように、もごもごと不明瞭だった発音がクリアになっている。
眼を上げて、晶は愕然とした。
皮膚の下から醜く盛り上がっていた塊が、雪が溶けるように崩れ、吸収されていく。
そこに、紛れもなく、「顔」が生まれた。黒い眼が、強く晶を見つめてくる。やや尖った、まっすぐな鼻……薄い、意志の強そうな唇……
・・・・・・・
癒えているのだ。
「い、いつき……おまえ、人間……」
「え……」
温かなお湯が降り注ぐ中、少年は目を瞬いた。指先で頬に触れ、鼻に、口に触れる。
「おれ……しゃべれる! しゃべれる! あきらぁ」
またしてもものすごい勢いでぶつかってくる。しかし、晶はいまだ信じられない思いで一杯だった。両手で樹の頬を挟み、まじまじと見つめる。「人間……おまえ」
声が詰まった。「病気なのか……骨が曲がり、口の中にできものができた……人間……人間、なのか……」
穢狗と蔑まれ、足蹴にされるものが、こんなにも自分と近い存在だったことに、晶は衝撃を覚えていた。だが、樹は無邪気に(そして力まかせに)晶に抱きついた。
「あきら、あきらぁ! おれ、うれしい! はなせるうれしい、いたくないの、うれしいぃ……」
見れば、折れ曲がり節くれ立っていた手足も、痩せてはいるが健やかに伸びている。そうしているのを見ると、樹は晶よりも少し背が高いくらいだった。
「樹、おまえ……ずっと、痛かったの?」
「うん。て、あし、いたい。あたりまえ。でもいま、いたくない! いきもくるしくない……おれ、うれしい……あきらぁ」
懐いた犬がするように、樹は首筋に鼻面を埋め、息を荒らげながら、頬をぺろぺろと舐めた。
「おいこら、樹……やめろよ、人間なんだろ、おまえ」
「うれしいから」
頭をぐりぐりと濡れたシャツに押しつけてくる。「あきら、すき。すき。うれしい。あきら」
「いいかげんにしろって。やっぱおまえ犬なのか」
「いぬちがう。おれ、ねのたみ」
「ねの、たみ……」と、呟いたところで、晶はため息をついた。「うーん、込み入った話は後にして、まずは、身体あらうか」
晶の体操服は、びしょ濡れなばかりか血まみれで、しかも、樹が身体をこすりつけてきたせいで泥だらけだった。晶は、身体に張り付く衣服をなんとか脱ぎ捨てると、丸めて浴室の隅に押し込んだ。「いてて……」
「あきら、いたい」
「おまえが噛んだせいだよっ」
「おれ、いたいのなおった」
「ああ、良かったな」
「あきらも」薄い唇に、無邪気に笑みを浮かべる。「いたいの、なおす」
「えっ……」
初めてだというのに、こいつは受血がなんなのかわかっているのか。だが、樹は、伸びやかな腕を晶の口元に充てがった。「あきら、のむ。いたいのなおる」
なぜか、息が浅くなるのを感じた……
「い、いいのか」
「あきら、してくれた。おれもしたい」
どういうわけか、クラスメイトや母から血をもらうのとは異なる衝動に、晶はくらくらした。
飲みたい。早く。どんな味だろう。
思い切り吸い付き、咬み切り、口の中にこいつを感じたい……
唇に触れる滑らかな肌に、晶は喘ぎ、そして咬みついた。プツッと口の中で皮膚が弾け、血管が裂ける。じゅっ、と音を立てて吸うと、樹が呻いた。
「んっ、う、うっ、うっ……あきら」
それは、感じたことがないほどに甘かった。唇で血管を探り、その中に舌を差し入れる。
濃くて甘い。もっと欲しい。もっと……
「あきら……あきらぁ……」
我知らず、晶は樹を浴室の壁に押し付けるようにしながら、さらに彼に身体を寄せた。肌と肌が触れ合う中、晶は一心に傷を吸い付けた。
傷が癒えていく。癒えてしまう。
名残惜しくて、小さくなっていく傷のその最後まで、晶は舌で追っていた。
顔を上げると、陶然とした顔で、樹が見下ろしていた。
「あきら……」
彼はうっとりと囁いた。「きもちいね……」