四(2020、秋)
稲穂が重く垂れ、夕焼けの中で金色に揺れている。どこかで蛙が鳴いていた。遠く、薄雲の向こうに筑波山の双峰がかすんでいる。今日はどさくさに紛れて恵梨花から受血できたから、母に咎められることもなさそうだ。晶は秋風を頬に感じながら、家路を辿っていた。
啓介とその取り巻きが賑やかに神社に向かうのと、しばらく同道することになる。その中には隼太もいた。
最初に気づいたのは、その隼太だった……
「あ……あれ」
指差すのを見ると、何か、ぼろきれのようなものがあぜ道にひっかかっている。動いていた。
「えっ、もしかして、狗(いぬ)?」
「俺、初めて見た……」
「馬鹿、社会科見学で見ただろ」
晶も立ち止まり、彼らと一緒になってその生き物を眺めた。晶も、間近で見るのは初めてだった。
|穢狗《えいぬ》……犬より賢く、猿より器用で従順なために、工場などで使役される動物だ。そう、晶も社会科見学でバスに乗って訪れた工場で、ミシンを上手にかける穢狗の一群をガラス越しに見たことがあるだけだった。あの時に見たのは、もっと大柄だった気がする……目の前にいる穢狗は、いずれも晶より小柄なくらいだった。
あぜ道にいるのは二匹で、一匹はうずくまったまま動かないが、もう一匹は、身体を引きずるようにして近づいてくる。犬が甘えるときのような、くうくうふんふんという鳴き声……(いや、呼吸音か?)を立てながら、それは道に這いずり上がった。と思うや声を発した。
「あ……ふ、え…………て……」
口に何かをほおばりながら喋っているような、不明瞭な発音だった。しかし、それはどうにも人間の言葉に聞こえた。しかも、子供の声のように、高く澄んだ声だった……
「た、ふ、えて……」
「おい、やめようよ」
隼太が後じさりながら言った。「穢狗には近づいちゃ駄目って言われてるだろ」
「何だよ、おまえ、怖いのか?」
啓介は強がるように笑った。「何だ、こんなやつ」
いきなり、啓介がその小柄な穢狗を蹴飛ばしたので、晶は、息を呑んだ。
「おいっ……! おまえ、何してんだよ!」
啓介は晶を振り返り、せせら笑った。
「何って、教育だよ。知らないのか、道の上は狗は歩けないんだぜ。ほら、狗は泥の上にいりゃいいんだよ」
あくまで近づいてこようとする狗を、さらに彼は、蹴飛ばした。それがまとっている古いくたびれた布に、泥だけではなく血が滲みたような黒ずんだ赤色を見て、晶は啓介の前に割り込んだ。「よせよ! こいつ、怪我してるぞ」
そのとき、手というか前足というか、ものすごい力で狗が晶の背中にしがみついてきた。爪が肩に、首に食い込む。
「うわっ……つあっ!!」
その痛みに、晶は思わず叫んだ。肌が破れ、血が滴る。ぐっと背に狗の重みがかかり、晶は道端に転倒した。
わっ、と叫んで、蜘蛛の子が散るように子どもたちは逃げ出した。
啓介が叫ぶのが聞こえた……「晶が食われた! 狗に食われた!!」
ぞっとするような数瞬……晶は、ほんとうに食われるのではないかと思った。ふんふんと息が耳に当たる。なにか芹か蓬のような匂いがする……
ぽたぽたと、なにか温かなものが頸に滴った。
よだれ? いや……
「あきぁ……あきや……」
それが、口を利いた。
震えながら、晶は振り返った。
「あきや」
晶は、息を飲んだ。
「まさか、……それ、おまえ……『晶』って言ってるの?」
人語を解す……と、知ってはいたが、喋れるとは知らなかった。しかも、耳に挟んだだけの言葉を名前と理解して使うとは……
まともに、目が合った。
黒い、強い光をたたえた瞳からは、涙が流れ落ち、顎を伝って、晶に降り注いでいた。奇妙な凹凸に歪められ、拉がれてはいたが、今はそれは人間の顔に見えた……
「泣いてるの、おまえ……」
「た、う、えて。あきや。たふけて」
助けて、と、そう言っているのだ。しかし、狗の言葉は話すうち、震えて混乱し、もつれ、早口になった。
「あくたが。**んで、うご*ない。ろうひて**わややない」
「待てよ、そんなに言われても分からないよ。とりあえず、下りて」晶は囁いた。「助けるから……」
しぶしぶといった形で狗は晶の身体から下りたが、しがみつく「手」は離さなかった。
そう。どうにも、人間に見える……
「あくた」と、あぜ道にうずくまるもう一体の狗を指す。地面に擦れた布から、曲がった小さな手がはみ出、地を掻くように撓められていた。「たふけて……」
ズックの短靴が泥で汚れるのも気にせずに、晶は道から下り、あぜ道の狗に近寄った。風が、背に流れた渦巻くたてがみを撫でていく(たてがみ、というか、髪の毛ではないか?)、全く動きがない。呼吸の気配すらも……
晶は手を伸ばし、口元に近づけた。
呼吸をしていない……
「死んでる……」
彼は囁いた。狗が、叫ぶように泣きながら、激しく晶の身体を揺さぶった。「や! あくた、いなない……おえと、かえる……かえる!!」
「仲良しなんだな……」
体操服の胸にしがみついたまま慟哭する、痩せた背中を、そっと晶は撫でた。ごつごつと盛り上がった骨や不自然な凹凸にも関わらず、その身体は温かかった。
「あきやぁ……」すすり泣きながら、狗は顔を晶の胸にこすりつけてきた。「ろうふえばいいの、おえ……」
「ここにこうしてるわけにも行かないよな……おまえ、怪我してるし……」
懐いてくる犬にするように、その頭を撫でてやりながら、晶はため息をついた。犬を拾うのとはわけが違う……しかし、放置する気持ちにはなれなかった。
「とりあえず、うちに来いよ。今日は母さん夜勤だし……」
言うと、狗は、晶の手にしがみついてきた。
「おまえ、名前は?」
狗は、囁いた。
「おえ……かす」
「かす……滓?」
晶は眉を顰めた。「ほんとにかす? ほかに名前ないの」
穢狗がどんな名をつけられているのか、晶は知らなかった。そんな、罵倒のような名をいつも呼ばれているのだろうか。
「ほんとのなあえ、ある……えも、こえ、ない」
「言えないってこと?」
「おと、ない」
「どういうこと?」
狗は、胸のまえで、なにか、複雑に手を動かした。
「こえ、おえのなまえ」
「え……」
晶は、驚いて、小柄な狗に向き合った。
「……手話?」
「こえ、にがて。てではなす」
「へえー……」
晶は、しばらくしゃがみ込んだまま、まじまじと狗の黒い瞳を見つめていた。その顔貌は奇妙な凹凸に醜く歪んでいたが、見つめ返す眼は透き通るように黒く、まっさらな真摯さがあった。
「今の、もう一度やってくれる?」
「え」
「おまえの、名前」
狗は、その言葉に応えた。右手を胸の前からゆっくりと上に伸ばしつつ、一本一本、指を広げていく。
「えーと……花が咲いてるところ? じゃないか。木が、伸びていくところ……? 芽吹き、みたいな」
見つめてくる真っ黒な瞳に、まぎれもないよろこびが浮かんだ。
「そう! そえ、おえのなまえ……!」
「木? 伸びていく木」
「うん、うん……!」
「じゃあさ」
手を握って立たせてやりながら、晶は思いついたことを言った。
「いつき、って呼んでいい? 木って意味で。|樹《いつき》」
一瞬の間の後、ぎゅっ、と、痛いほどに晶の手を握る手に力が込められた。あまりの強さに、晶は、うっ、と呻いた。
「うえしい……うれしい、おえ、いつき、うえしい。いつき。あきや」
「なんだ、嬉しいの?」手の痛みに眉をしかめながらも、晶はふっと笑った。「可愛いやつだな……」
「樹」は、ぐっと脇の下に頭をこすりつけてきた。「うえしい。あきや、おえ、いつき」
そう、この時点では、晶は、(妙なものに懐かれたな)という感想しか持たなかったのだった。