去る、木曜日の夜のこと。
配信中に、異様な腹痛に襲われました。
ピンポイントで、左脇腹腹部が痛い感じで、配信を中止して、病院に行きました。
CTを取った結果、小腸の部分に炎症が見られる、と言われました。
ただ、特効薬がある訳じゃ無いから、整腸剤を飲んで、養生しなさいとも言われました。
その時は、夜間の緊急外来だったので、会計は閉まっていた為、後日支払いに来ると言うことになりました。
医療というものは、原因がどうのというのはあまり考えないです。対処療法ですね。
さて。
私は、父親母親に相談しました。翌日の金曜日です。
というのは、余分な医療費が発生した為、その分を助けて貰えないか? という事です。
そこで、母は言いました。
「体調が悪いんなら仕事を休んだら?」
そこで、ガチャっと電話を切られた為、えっ? と思いました。
腹の調子は悪いまんまで、休めばいいじゃないかと言うものの、医療費については言及が無い。
・・・? 生きていようが死んでいようがどうでもいいけど、自分の病気は自分で治せ?
私は、お腹が痛いまんまの状態で、結局仕事に行きました。
ああ、俺って、怪我しようが病気になろうが頼る人居ないんだ、と思いながらです。
自分の病気は自分で治して、医療費も全部自分で払え、OK、自立できん奴は死ね、ね? 了解、と。
仕事が終わって、その後、夜間に電話がかかって来ました。父から。
「おい、大丈夫か?」
状態について話したところで、電話を切られました。
翌日の今日、母が自宅に来ました。
「はい、医療費分。2万円あれば足りるでしょう?」
「お粥でも炊いて食べなさい。水と米の比率は5倍よ。」
感謝してお金を受け取り、用事があると言う母を見送りました。
少し思いました。
私は、割と、父母に関しては疑念を持っていました。
なんとなく、親父もお袋も、変わって来たんかな、とは。
一番、大きいのは、病気に対する考え方ですね。
多分ですが、病気の人間は、閉じ込めるか、薬殺処分すればいいとか、そんな事は考えて無いでしょう。
子供に対する親の無慈悲な態度は、その子供の社会に対する無慈悲と同じ結果を産みます。
例えばイジメの問題。
周囲のワルが、そいつを虐める前に、その上に立っている教師が嫌っていて、ワル共をけしかけてイジメさせてるという構図は良く聞く話です。
しかし、私の見るところでは、その子供がイジメに遭う前に、その親がその子供をいじめています。
また、職場でのイジメもそうで、上司が部下を虐めて、他の同僚たちにも犯行に加わらせると言う、組織的な構図があります。
その上司が、怪我をして休職したらその部下たちから心配されますが、虐められていた人がおいおい仕切りちゃんとやってくれよ、と言うと、怪我をしている人に対してお前は何を言ってるんだ?! と総スカン喰らう訳です。
その実、その本人は、怪我した上司に対して、回復不能な怪我を負ったのであれば、身体障害者手帳を取得した方がいい、先立つものは必要だろう? 長い人生、精神を病むこともあれば、体を怪我することもあるから、使える制度は使っといた方がいい、などとアドバイスしてたりしますが、それは評価されないんです。
私などは、たとい殴られようが何をしようが、職務は遂行せよと言われる身ですが、本人にそういう態度を取られるような、元凶の種を蒔いてるのは、他でもないその人の親だったりするんですよ。
過労で倒れている子供を車に乗せて、農園に運んで、よし頑張って働いて来い、などと言う父親、それを見ていた周りが、言う訳です。
「あなたが精神の病気になったのは、家庭環境が原因ですか・・・?」
そして、そういうことをやられた子供は、ああ、世界は常に残酷なんだと思って、他の人にも同じようにやるのですよ。
親の子供に対する態度が、変わらない限り、それはずっと続くのです。
聖書は、親子の問題について多くを語っています。
ここで、旧約聖書と、新約聖書に於ける家族関係の考え方の違いに注意があります。
旧約聖書では、親、すなわち創造神の父なる神は、例外を除いて、天に居ます。
そして、神の名をみだりに唱えてはならないと教え、常に恐れ憚らなければならない存在です。
また、親を呪う子供は石打ちの刑に処せられて殺されますし、親は子供をいつでも殺して良いという考えです。
なんとなく、親と子は肩を並べるような事があってはならないとか、仁義や忠孝の考えの、極道と同じものを感じます。
そして、子である人間は、神様お願いします、雨を降らせて下さい、生贄を捧げますんで、と言って、常に神様の顔色を窺って、飢餓・疫病・戦争などが起これば、それは神様が下した罰だと考えて、きっと俺たちが何か悪いことをやったから、神様は怒ってこのような罰を下されたのだ、と考えます。
その結果、成立したのが、律法学者です。
律法書を細かく研究し、人々にそれを教えましたが、その内容は、結局、お前が病気になったのは、罪の報いのせいだ、何か悪いことをやったんだろう? という由の内容です。
有名なものに、ヨブ記があります。ヨブの友人たちが、酷い目に遭わされたヨブに対して、神の前に悔い改めよ、と言い、ヨブは、いや、自分何も悪いことやってないのに、何をどう悔い改めるんだ? というくだりがあります。
律法学者は、安息日を守れない奴は呪われてるんだとか、そういう事を言い、その実、自分の手を使わずに貧しい人に働かせて、自分だけは律法を守れてるから救われてるんだとか、理不尽な事を言ってたようです。
なんとなく、お前の人生がうまくいかないのは、お前の自助努力が足りないせいだ、あ、政府の悪口は言うなよ? と自分たちを棚上げにして、貧しい人にさらに追い討ちを掛ける、日本の上級国民の現状に似ています。
新約聖書に於ける、親と子の関係性は、旧約聖書のものとはかなり異なっています。
神様の方が、人間に対して、その子供を送り、その子供は、人間の兄弟、友達になるようにと勧め、人間は、神の子の友達であると言う事で、神様に対してお願いをする事ができる、そういう教えです。
有名なたとえ話で、放蕩息子のたとえがあります。ルカによる福音書にあります。
子供が親のところに行って、お願いします、食べ物を恵んで下さい、と言うのでは無いのです。
親が、ボロボロになった子供のところに駆け寄って、慰めてやる、と言うのです。
他の、真面目に使えてきた兄弟にも、いや、あいつは死んだものと思ってたのに帰ってきてくれたんだから、そう不満を言うな、と諭しながら。
あくまで、能動的なのは、神様の方だと言う事です。
そして、その信徒は、その神様から受けたものに感謝して、他の人にも善行を施す、という話です。
イエス・キリストは、その弟子であり友である12人と、肩を並べて食卓を囲みました。
教会は信仰の兄弟の間に、差別があってはならない、神の御前に人は平等であると教えます。
ちなみに、ヒンドゥー教が支配的なインドに於いては、カーストが異なる人とは、食卓を囲んではならないらしいです。
アンベート・カルが、仏教再興運動を行って、集団改宗し、仏の教えの中に差別は無い、そう教えたようですが、改宗したのは、元々、差別されていた不可触民たちらしいです。
私は、イエス・キリストの弟子であり、ブッダの弟子では無いのですが、差別的な考えと戦うという点では共感を覚えます。
まぁ、どんな立派な教えでも、本人が聞く気が無ければ一緒ですがね。
聖書は語ります。
子供がパンを求めているのに、石を与える親が居るだろうか。魚を求めているのに、蛇を与える親が居るだろうか。
人間、必要とされてなんぼですが、親がその子供から、こいつに何を頼んでも無駄だ、そんな風に思われたら終わりですよ。
よく、占い師やってんのか? じゃあ、お前、どっかの組員か? なんて尋ねられます。
私は、どこの組にも入る気はありません。
親分が一度、クロと申しつけたならば、白いもんでもクロと言う、とか、親が鉄砲玉になって死んでこい言うたら、はい分かりました言うて、死にに行くのが男、とか、そんな考えを私は持っていません。
私は、父親になりたい。
まぁ、貧乏人の奥さんになりたい言う女性も居ないでしょうが、一点。
シングルマザー、人妻、そういう人と関係はしないのでよろしくお願いします。
それと、結婚相手が見つかったとしても、私の両親には接近させないようにします。
あの嫁は気に食わない、離婚すればいい、なんて、兄嫁に言ってましたからね。
私、結婚アドバイザーはやっても、離婚アドバイザーはやりたくないですよ。
夫婦の関係に、部外者が口を挟む時点で、亀裂が入る元です。
世の女性が、マザコン男とは絶対結婚するなと教えるのは、理に叶ってます。
未だに、親を警戒してる部分はかなりありますが、まぁ、多少は変わったんかなあ、とは。
病院の会計が開くのは、月曜日でしょうから、また、カンパして貰った2万円で医療費払いに行きます。