インターネット上を見ると、昨今、AIアートというのがよく目にするようになりました。

 

自動描画ソフトウェアに命令を打ち込めば、意図した通りの綺麗な絵を描いてくれるというものです。

 

このソフトウェアの出現で、もう、アートなどは機械がやってくれると揶揄されるようにもなりました。

 

ところが、話は、そこでは終わりません。

 

じゃあ、AIに、どんな絵を描かせるの? という発想の問題が出ます。

 

至極当たり前の話です。

 

 

だって、ソフトウェアさえあれば、なんぼでも、綺麗な絵柄が描いてもらえるんですよ?

 

そして、似たような絵柄が、世界中に拡散されています。

 

ということは、アートとして、その部分では差がつかないんですよ。

 

私も、個人事業主なんですが、他にできないことができないと、競合他社との差別化が図れません。

 

そして、AIのおかげで、最初は差別化が図れても、一気に普及してしまえば、差がつかなくなってきます。

 

こうなってくると、どこで、画家が差別化を図るのか? となると、それは、他では思いつかないような発想です。

 

 

占いにしてもそうで、私は、西洋占星術や四柱推命などの、誕生日から割り出す占いは、ほぼやりません。

 

占術的に意味が無いというのでは無くて、他にプロがたくさん居るからです。

 

しかも、一定のアルゴリズムが分かれば、誰でも同じ誕生日の人であれば、同じ結果になります。

 

こうなると、精度の高い低いという話ではなく、同じ精度のものがいくつもあれば、顧客は割れます。

 

私が、その星占いの分野ができないのではなくて、やっても差別化が図れないから、やらないというだけです。

 

それなら、まだ、人の数だけ判断が分かれる、手相、人相の世界を鑑みた方がマシですが、その世界でも、40年以上、手相を見続けてるツワモノとか居ますから、付け焼き刃で勝てる訳が無いんですよ。

 

ただ、トランプの占いに関しては、私が研究を始めるまで、議論百出で、正確なところ誰も分かんない状態でしたし、私は、実際に人様にカードを引いて貰って、それで鑑定するということを13年ぐらい続けましたから、同じトランプを使っての占いであれば、百勝てる自信があるので、トランプを使ってるのです。

 

世界には、色んな占術体系がありますが、どれも技術ですから、その道に長い人が勝つのは当然なのですよ。

 

 

AIアートの場合は、技術的な最低ラインを、いとも簡単にクリアしてくれます。

 

画家の商売あがったり、もう、人間なんて要らないとかそういう話になりがちですがね。

 

ただ、実際には、問われる内容、何を社会に対して提示している絵なのか、そこのハードルが高くなってます。

 

これに関して言えば、デュシャンの「泉」の話が想起されます。

 

 

デュシャンは、トイレの便器を美術館に送りつけて、これがアートだと言いました。

 

で、当時も今も、そんなもんのどこかアートなんだと言われます。

 

しかし、じゃあ、なぜ、トイレの便器はアートではなく、ゴッホのひまわりなどはアートなんだ? という事です。

 

境目はどこ? 何が違う? そういう問題を提起したデュシャンは、今も評価が高いです。

 

今後、画家を志すような人達は、ただ単に綺麗な絵を描くだけでは、AIにも負けるという現実があります。

 

 

私が思うに、本物の芸術、心震わせる音楽、空前絶後の文章、そういうものは、もう、「何か」を飛び越えた世界にしか存在しないのでは無いかと思います。

 

気が狂ってるとしか思えない、普通の感覚ではあり得ない、人語を絶している、他に喩える方法が無い、何だこれは? このほとばしる脅威的な感覚は? そういう、人間の中に眠っている、潜在能力を呼び起こすような、そういうものが、本当の芸術なのだと思います。

 

要は、本気で描いてるかどうかです。

 

エスパーじゃ無くても、人間が、本当に楽しんで描いてるかどうかは分かりますから。

 

作画にAIを使っても、それは補助具にしか過ぎません。

 

 

私が思うには、商業的に売れることを目指すのであれば、全員がAIアートを使えばいいんですよ。

 

じゃあ、それ、本当にあなたが描きたい絵なの?

 

 

さて、昨今は、ネット上にAIで作った文章なども溢れています。

 

この文章は、最新鋭のAIが書いた、ソフトウェアさえあれば誰でも書ける代物でしょうか?

 

それとも、他でも無い、人間の私が書いた文章でしょうか?

 

ご判断は、読者の皆様に委ねます。