あなたは、自分の大切な人を、他人に売った事があるだろうか?

 

あなたは、その人を、幾らの報酬で売っただろうか?

 

聖書によれば、イスカリオテのユダは、銀貨五十枚で神の子を売ったと呼ばれる。

 

 

敬虔なキリスト教の一家があったらしい。

 

その一家の長男は自殺し、その母親も後追い自殺をしたと。

 

残された妹にして娘が私に尋ねてきた。

 

自殺した者は、天国に行けないのでしょうか? と。

 

私は答えた。

 

「そうだ。」

 

 

イスカリオテのユダが救われないのは、彼がキリストを裏切ったからではない。

 

キリストが磔刑死した時、12弟子全員が見捨てて逃げている。

 

特に、一番弟子のシモン・バルヨナ、初代教皇ペトロなどは、この時、鶏が二度鳴く前に三度イエスを呪っている。

 

 

「お前、あのイエスの仲間だろ?」

 

「いや、違う。」

 

コケコッコー

 

「いや、間違いない、お前がイエスと一緒に行動してたの見たぞ?」

 

「何のことか分からない。」

 

コケコッコー

 

「絶対にそうだ、ガリラヤの訛りがある、お前も一緒に・・・。」

 

「神にかけて誓うが、私はイエスだなんて男とは無関係だ。」

 

こうして、ペトロは生き残り、さらに磔刑の死の瞬間にも、傍に居たわけでもない。

 

最後まで従ったのは、女性達ぐらいだったらしい。

 

自分の保身を考えて行動する、人間のエゴイズム的には、ペトロもユダも、大差は無い。

 

 

問題は、ユダが自殺をしてしまった事による。

 

このイスカリオテのユダは、酷く品行方正な人間で、弟子仲間の中でも信頼厚く、こいつが悪い事をするなんてありえないと、皆んなの金入れを預かっていたらしい。

 

そして、彼は、分からないように、こっそりと着服して使っていたとも伝わる。

 

品行方正な立派な好青年は表の顔で、裏ではパリサイ派と繋がり、最終的に、イエスを銀貨50枚で売った。

 

そこまで完徹したなら、いっそ、けけけけけ、やったぜ、あの偽メシア、イスラエルをローマの支配から解放してくれる訳でもない、ただの人間を始末してやったぜ、バンザイ! と言っておけば良かった。

 

現に、ユダがイエスを裏切った理由はそれであると言われる。

 

ところが、ユダは、イエスが死刑になると知るや、取り返しのつかないことをやったと、やった後で気付き、そこで悔い改めたのでもあればともかく、責任を取って生き恥を生涯晒し続けるのを拒否し、首を吊って自殺した。

 

ここが、ペトロと、ユダの大きな違いになる。

 

 

ペトロは、最後まで自分の裏切り行為の責任を取り続け、初代教会のリーダーとして活動し、皇帝ネロの時代に殉教したと伝わる。

 

今の、カトリック教会の創始者は、まさしくペトロその人であり、ペトロがイエスから受けた、天国の鍵、教皇の座を、代々継承し続けていると言う話だ。

 

ペトロの信念と魂は、宗教的な言説を持ち出さなくても、今も生きていると言っても過言ではない。

 

 

しかし、ユダの時は、ずーっと、あの、イエスを売った夜から変わってない。

 

自殺をするとは、こういう事であり、まさしく、永遠の滅びに至り、しかも見せしめとして、新約聖書に載っている。

 

イスカリオテのユダに気をつけろ、奴と同じ真似をするな、だ。

 

 

私は思う。

 

その、キリストを信じていたという、敬虔なクリスチャン・ファミリーは、本当にキリストを信じていたのか?

 

むしろ、イスカリオテのユダの家ではなかったのか?

 

口先で、イエスは愛の神だと謳い、心の中では、全然キリストを信じてない。

 

もし、イエスの信仰が与えられていたのであれば、例えば、自殺という話を聞いては怖くなり、殺人という言葉を聞いて身が震え、根絶やしに絶滅させると言われれば悲鳴を上げる筈である。

 

キリストを信じている人間だって、辛いこと、苦しいこと、何回だってある。

 

自分だって、定期的に死にたい死にたい言うてる。

 

しかし、私は、少なくとも今、自殺には着手してない。

 

要は、行動だ。信仰には、行動が伴う。

 

私が、キリストに望みを置いていないのであれば、私は、とっくの昔に死んでいる。

 

 

毎週毎週、教会に通い、聖書を読んで、讃美歌を歌う、それも重要な事である。

 

しかし、キリストが何の為に死んだのかと言えば、私達の命を救う為である。

 

何の為に、立派な聖書を読み、讃美歌を覚えたのか、よく分からない。

 

悩み、苦しみを包まず述べて、重荷の全てを、御手に委ねよ、とは讃美歌にある言葉だ。

 

イエス・キリストという神は、美辞麗句を喜ぶ神ではない。

 

こんな罪人を憐れんで下さい、そうひざまづく者に、罪の赦し、体の甦り、永遠の命を与える神である。

 

 

現代でも、宗教の門を叩く者は居る。

 

地方の田舎でも、年間100人程度は、ちょっと教会に行ってみようか、という人が新規に来る。

 

当然、問題をそれぞれ抱えている。イエス・キリストは医者だ。その治療を願ってだ。

 

 

私は、占い師を名乗ってるが、実体的には、祭司の方に近い。

 

私の掟は、「死ぬな、殺すな、滅ぼすな。」である。

 

人間同士の平和的共存を願い、それに反する人間は、例外なく排除する。

 

命が一番重い。例外は無い。

 

もっと、簡単な内容の掟に言い換えてもいいだろう。

 

 

「生きろ。」

 

 

この酷く単純な命令を、実行できない者を、私は私の弟子とは認めない。