クリスマスが、イエス・キリストの誕生日である事は、広く知られた事実です。
実際は、冬至の祝いを、キリストの祝いという事にしたらしいですが。
何はともあれ、誕生日のお祝いです。
イエスが、キリストである事を信じるのが、キリスト教徒な訳ですが、ここで、古代より、繰り返された議論があります。
ところで、キリストって何者?
単純化して言うと、「王であって、祭司であって、預言者である、神の子。」です。
一番重要なのは、最後、神の子、です。
もっと簡単に言うと、キリスト教徒は、イエス自体を神と考えているという事です。
神が、全世界を創造した、と旧約聖書には書かれています。
その、創造の前に、神が居て、その神の子が居り、聖霊達も居た、という訳です。
そして、父なる神が、直接語りかけた場合もありますが、多くは聖霊を介しています。
聖霊を授かった人は、神の声を聞けるようになり、奇跡を起こす事もできたと。
そういう存在を、古来より、預言者と言っていました。
いつ、どこで、誰が、聖霊を受けて預言者になるかは、全く分かりませんでした。
王は居たのですよ? ただ、それは、祭司による任命を必要とするとされました。
有名なダビデ王にしても、祭司サムエルより、任職の油を注がれています。
じゃあ、祭司に誰でも成れたのか? と言うと、それは違って、レビ人の子孫のみとされました。
このレビ人には、イスラエルに於ける、領土の割り当てが無く、民に代わって神に生贄を捧げ、その一部を貰うという仕事をしていました。
今でも、ヘブライ語で、「ラビ」と言うと、「先生」の意味で、元を辿れば、「レビ人」の意味合いらしいです。
古代に於いても、現代とは違った風ではあったものの、権力の分散が行われていたという事です。
王は、世俗の事を取り仕切り、領土や領民を持つが、祭儀に関する権力は持っていなかった。
祭司は、神に仕え、その律法に基づいて、民を裁き、また、王を任命する権限を持っていた。
預言者は、神の言葉を直接受けて、その国民が腐敗した時には、警告し、時に奇跡を行って民を救ったが、特権は持っていなかった。
で、これらの頂点に立つのが、神であった訳ですから、神の子という事は、その全てです。
ところが、そんな存在がやってきたら、世俗の権力を握る王、宗教的権威を笠に着る祭司、我こそは神の代理人と名乗る預言者は、困る訳です。
最終的に、キリストであった、イエスは、処刑されました。
イエスは、人間として生まれましたから、当然、人間として痛い思いをして死んだ訳です。
イエスが処刑されて死んだ直後から、イエスが復活したという話が広まりました。
この事を、直接示す、史実文献は一切ありません。ただ、聖書に書かれているのと、ローマの記録に、「イエス言う反逆者を十字架刑で処刑した。」という記録が残っているのみです。
だから、イエスが、キリストである、復活して今も、王の王、祭司の祭司、預言者の預言者として、天の神の右で、人々を導いていると信じる者が、キリスト教徒、俗に言う、クリスチャンという話です。
キリストを信じた者は、キリストから、プレゼントが与えられるとされます。聖霊です。
神の声が聞こえたり、奇跡を起こすのは、この聖霊によるものとされますから、人によっては、奇跡の一つも起こせるのでしょう。
私が、「何か、人の頭上に居るモノが見える。」というのは、実は、そのプレゼント、賜物の中でも代表的なものです。
「霊を見分ける賜物」などと、書いてあります。人により、見え方は変わるようですがね。
ただ、じゃあ、キリストの弟子になれば、皆、見えだすのかと言うと、そういう話でも無いです。
聖霊が、どういう賜物を与えて、隣人の役に立つかを考えて、与えるようです。あくまで、世の為、人の為という話です。
ちなみに、キリストの弟子になると言う場合、キリストから、弟子たる資格の確認を受けます。
弟子となる条件は、キリストを正確に理解しているかどうかという事が一点。
もう一つ、こっちの方が重要なのですが、過去の罪の告白が要るとされ、それを悔い改め、キリストに従いますと決心するかどうかです。
現代だって、宗教の門を叩く人達は、結構居ます。
その人達には当然、病気やら、犯罪やら、身内の不幸やらがある訳です。
その問題を、解決する方策が無く、止む無く、キリストにお願いする訳です。
私の場合、病気の事が無ければ、絶対入信してません。
それも、私の抱えてる病気は、遺伝病ですから、自分の子供が生まれたら、その子も苦しむのは間違いないのです。
「イエス・キリストを信じなさい。あなたも、あなたの家族も救われます。」
私は、本来の性格から言えば、かなり、キリストから遠い存在です。
学生時代に言われた、皆の評価。
「自分を、色で表すと、何色だと思う?」
「青」
「紫」
「黒」
主イエス・キリストが、私を、「白」として下さりますように。アーメン。