僕は一瞬言葉を無くしてしまった。彼女の純粋で疑いのない瞳に吸い込まれた。


「おい伊藤!お前に聞いてるんだぞ!」


幻覚のような不思議な空間の中に、松本先生の声が飛び込んできた。


「あ!はいそうです!」


先生の言葉にふと我に帰った僕は、とっさにそう答えた。


流華は僕に軽くウインクし、先生の方に視線を戻す。


「よ~し、じゃあおい隼田、お前みんなの提出物集めて来なさい」


「ガチっすかぁ?了解っすぅ~」


口を大きく横に開けた隼田はまるで、トトロのような顔だ。そのトトロを見ながら種本流華は

大笑いしていた。


僕はそんな流華の笑顔が前からずっと気になっていた。


流華に初めて出合ったのは、大学の入学式のとき。式が終わった後に集まった講義室で、たまたま隣にいた

のが流華だった。


「あのー、この証明写真っていつまでに出せばいいのかなぁ?分かります?」


最初に話しかけてきたのは、流華からだった。


「え?あ、うーん、えーっとね、うんと俺も・・・」


恥ずかしい話、僕はパニくった(笑)


「・・・・?ごめん分からないならいいんだけどね!」


やっぱりその頃から、僕は流華の眼差しに免疫がない・・・


「たしかこれは・・・多分明日・・・いや明後日の・・」


そこまで言いかけた時に、講義室に男が入ってきた。


「おーい流華!」


「あっ端澤先輩~♪」


「もうやること無いんだろ?一緒にサークル行こうぜ」


この男は丹沢次郎(はしざわじろう)、3年生だが入学前から流華をサークルに誘っていたらしく、その頃から付き合っているという噂だった。


「伊藤君・・・だよね?ごめんね、また今度話そう♪」


そう笑って流華は丹沢と講義室から出て行った。なんだかそのとき、心に引っかかるというか自分でも理解できない気持ちに襲われたことを今でも覚えている。


「おい伊藤!次は胃から腸にかけてお前がスケッチ担当だろ?」


流華のことを思い出している時に、クラスメイトの松浦の声で僕はまた解剖学室に引き戻された。


「お、おう!てかマッツンはもうできたのかよ?」


僕がマッツンと呼ぶ松浦は、入学して以来の大親友だ。


僕らは眼科に勤務する視能訓練士になるために日々勉強に励んでいる。松浦は本当に頭のキレる奴で将来は教授になる!なんて豪語してる奴。


でも本当に優しくて思いやりもある最高の友達だ。


「もうできちゃってますよぉ~~何ならお前のスケッチもやってやるぜ!へへへ~」


そう言ってマッツンは僕のカバンごと引っ張り上げた。





今日は朝から解剖学の講義だ。


血をみることすら怖い僕にとって、人の遺体をみる解剖学は一番苦手な講義の1つである。


「松本先生~!!」


まだ落ち着きのない教室に一際大きな声が響く。


隼田だ。


一瞬にして誰もが分かる大きな声の持ち主の彼は、いつも明るく俗にいうクラスのムードメーカーだ。


「今日は早く終わりますか~??」


皆が心の中でききたいと思っている事を彼はすぐ口に出してくれる。


「お前が静かに手際よくやってくれたらな。」


松本先生も、またお前か!というような顔で返した言葉によってクラスに一段と大きな笑いがおこる。


今思い返せばこんな時間が幸せだったな。なんて思ってしまう。


「では先週の課題を提出してくれ。」


松本先生の一言によって、和んでいた皆に緊張が走る。


「先生~そんなのありましたっけ!?」


「そんなのなかったよね~」


クラスのあちこちに提出物を忘れた人達の言い訳が飛び交う。


実は僕もその中の一人である。


昨日の夜にしようと決めていたのだか、皆で麻雀をしようという事になりすっかり忘れてしまっていた。


案の定かばんから取り出した提出用の紙は真っ白だ。


「やべぇ~」


僕の声を聞いた隣に座っていた女の子が僕にせかすように言う。


「私やってるから今のうちに写しちゃいなよ!」


頭が良く、提出物を忘れた事が一度もないという彼女の名前は種本流華である。


そう、僕の最初で最後の初恋の相手だ。


「あ、ありがとう。」

僕は唐突な彼女の言葉に戸惑いながらも急いで提出物を仕上げる。

焦る僕を横目に先生の無情な言葉が突き刺さる。


「伊藤!」


僕の体が意思とは関係なくビクッとする。


「お前まさか種本のプリントを写してんじゃないだろうな?」


先生のさらなる追い討ちで僕の頭はもう真っ白だ。


「先生違います!」


突如横からの大きな声で僕は我にかえる。


「伊藤君はきちんとやっていました。今私のプリントと答えを一緒に見比べていたんです。」


僕は目がまん丸になった。


「本当か~?伊藤どうなんだ!」


僕は彼女に顔を向けると真剣な眼差しでこちらを見ている。
あの頃の僕はこのまま普通に学生生活を送り普通に就職して普通に結婚でもすると思っていた



でもほんの些細な偶然が重なりあって君と出会い、全てが変わった


この物語はあの日の朝から始まる


「あ~解剖学だりぃ」
僕は講義に向かう途中、歩きながら吸いかけのタバコを足で消した。