アマゾンが「キンドル」という電子書籍を発売した。
紙媒体の時代は終わりを迎え始めている。
でも、それは仕方がないことであると思う。「活字離れ」と騒がれているが、それは「文字離れ」ではなく「紙媒体離れ」であるからだ。「文字」が嫌いであれば、電子書籍だってネットだって繁栄することはありえない。
ただ、今まで「紙媒体」に適した文字であった「文字」が、これからはネットに対応した「文字」へと変貌していくだろう。

特に日本語に関して思うことがいくつかある。
①漢字のレベルの低下:これに関しては今に始まったことでないから、特に言及するまでもないであろう。
②ひらがな、カタカナ、漢字の形の変化:これは、もともと日本語の文字は「縦文字」であるから、縦に書きやすいような書き順、そして縦に対応した文字の形に長い時代をかけて進化してきたはずだ。
だから、このネットの横文字文化はおそらく日本語の文字には非常に窮屈なもので、長期的には、形を少しずつ変化させて、いつか、今の「文字」ではなくなる気がする。ものすごく長期的な流れではあるけど。

ここでふと思ったのだが、言語を「縦書き」か「横書き」かで区分して、どちらが将来発展するのか、なんていう研究はあるのだろか。すごく興味がある。。。

脱線した。

③日本語自体どうなるのだ:つまり、世界語世界語と叫ばれている英語の必要性と、人口減少によって話者が減っていく日本、しかも①②で述べたように将来的には「日本語」というものは大きく変化していくのではないかという推測から、何百年後かに日本語って残っているのかという疑問が思い浮かぶ。今じゃ極論にしか聞こえないが、英語が公用語になるなんてこともありうるかも知れないな。

電子書籍などの「紙媒体の追放」は文字文化の新たなステップを私たちに見せてくれる。ビジネスチャンスは無限に広がっている今だが、長期的に、このビジネスチャンスが「文字」を破滅させないことを願うばかりだ。

最近、業界の志望理由は段々とわかってきた。多くの企業説明会に行ってその過程で事業内容を絶対的、また相対的に把握していくから、仕事の理解度と比例して絞ってこれたのだ。


一方で、今自分の中で問題となっているのは、「会社の志望動機」だ。会社の社員に会ったこともなければ、会社に行ったこともないような企業に応募するとき、どのように「志望動機」を書けばいいのか迷ってしまう。HP上レベルの内容でいいのだろうか。それでは、同じ内容のESが何個も出来上がってしまって、自分のESが目立たないのではないか。


やはりOBOG訪問はそのために必要なのだと考える。OBOG訪問の有無自体が採用の判断基準になるのも納得である。必ずしもOBOG訪問が会社を知る最善の方法であるとは限らないから、「判断基準」として形式化してしまうのは問題があると思うけれども。


ということで、OBOG訪問を就職活動の成功のために進めていこうと思う。



なんか、自分の中の就職活動の流れが出来上がった。


テスト対策勉強:人よりも苦手なのであるから、人にリードをつけにまでも、平均的な点数を確実にとって面接に進めるようなレベルにする。平均的とはいっても、自分の受ける業界から考えてほぼ満点を取らなくてはならないことは必須であろう。


OBOG訪問:会社の概要や、志望動機を獲得するために、実際社員の方と面会する機会を多く設けていくスタンスにする。もちろん会社説明会などでも情報収集を行うが、それは2次的な選択肢として、まずOBOG訪問を強化していこうと思う。


実際の選考:実際の選考が既にスタートしてしまっているので、それにはどんな形でもいいからしがみついて、内定をできるだけ早く獲得し、自分の中で安心感を得たい。



就職活動のは自分の人生の転機だ。適当にやることは許されない。



そして最後に今日心に残った言葉を1つ



「相手を課題評価する」



文脈を持たない状態でこの言葉を思い出したとき、今日得た感動を常に思い出せるような生活をしていたい。

自己PR:相手に対して自分の良い面を見せる。そして就職活動の場合はそれが御社に対していかに有効であるかを説明する。


学生時代頑張ったこと:聞かれているのは、「自分がどのような環境に身を置いていたか」も聞かれると思われる。その環境から、面接官に判断されることがあると思われる。



そして、この両者、質問の派生が異なると思われる。


自己PR:なぜそのように思うのか?そのように思ったきっかけは何か?最近そう感じた時はいつか、そしてなぜそう感じたのか?などなど、「なぜ?」を中心に攻められるだろう。それは、自分のPRに信憑性、実証性、そして客観性がそなわっているか否かを確認したいからと考える。主に自分の長所が会社で生かしていけるのか、自分が会社に適切な人材かどうかを、肯定的な面の観察で探っている。


学生時代頑張ったこと:そこからどのような事を学んだか?何か工夫した事はあるか?あなたの役割は何か?など、ありとあらゆる方向で攻められると思う。おそらく、この質問の含意は、学生時代頑張ったことを聞き出すことで、自分がどういう人間なのかを総合的に聞き出すことであると思うからだ。



俺の場合、自己PRがまだまだ弱い。自分の長所は何なのか、をもっとはっきりと把握していかなくては。そして自分の長所がなぜ御社で生かせていくのかをしっかりと説明できる確固たるものがなくては。


自分の長所とは何なのか?


今のところ「状況に応じたリーダーシップを発揮できること」と考えているのだけど。。。


なんて曖昧な長所だろう。つまり自分が言いたいことは、「トップに立つ人だけがリーダーシップを発揮するのではないということ。また、トップにいるからこそ縁の下の力持ちの精神を大切にしていける人材であるということ」なのだけど。


もっとうまい表現がないものか。もっともっと推敲していかないと、就職活動はうまくいかないな。



人生でたった1回の新卒。自分のキャリアをスタートさせる瞬間の時期であるから、本当に悩んで悩んで、自分に本当にベストの回答を導いてあげよう。

新聞社って効率の悪い仕事なんだということをを初めて知った。


販売店で、多くの折り込み料を手に入れるために、実際の販売数よりも多い部数が本社から渡される。

そして、新聞の中の広告料も、新聞の発行部数が多ければ高い料金をとれるので、「押し売り」などの形で多くの偽装がなされているそうな。


「新聞」て「情報を人に届ける」と言ってしまえば夢のある仕事だけど、「紙」という効率の悪い媒体を使っているからこそ、夢の達成以前に多くの問題があるんだね。本を読んでいる限りにおいて、新聞社の未来を感じることはできなかった。




今、「情報」といえばインターネットの時代。Googleが「世界中の情報を整理する」ことを目標にいろいろなチャレンジをしている。


でも俺達の周りには、溢れかえるほど多くの情報が転がっている。Googleがいかに情報を整理したって、それは、まるで俺らがとんでもなくPC内の大きな情報図書館に入っただけの話に近い気がする。しかも、現状では、図書館の本の並び方はバラバラ。自分が求めていた情報もあれば、自分が求めていなかった情報もある。情報の中には、「読め」と言わんばかりに自分から内容をさらけ出してくる、メールなんてやつもいる。


情報の洪水を自分がどのように溺れずに泳ぎ切れるか、そして、泳ぐ中で何を「浮き輪」にしていくか、それ確固たる自分の価値観に委ねられるんだろうな。


当たり前すぎる話だけど。


少なくとも、「情報」を商売で扱う業界の絞り方が鮮明になってきた。

ラテン語=ローマ帝国の「国語」



この方程式を鵜呑みにせず、意味をもう少し吟味していくと、


「ローマ帝国」という国家から考慮されるべき点が多い。この国は周知の通り、ヨーロッパ全土を支配下に入れていたほどの超大国であった。現在のEUの昔の目標が「ローマ帝国圏の再統合」という話もあったくらいだから、その大きさは、EUを1つの国家に置き換えてみて地図を眺めれば一目瞭然だと思う。


そんなローマ帝国が、1つの国語、「ラテン語」を有していた。ただ、このラテン語はあくまで「ラテン語」である。どういうことかというと、ここまで巨大な国家であるローマ帝国内でたった1つの統一された言語が存在し使用され続けることは不可能に近いのである。今でいう「方言」のような現地語、土着語が地域地域で生まれていき、純粋な「ラテン語」ではなくなっていくのだ。


では、何が「ラテン語」なのか。それは、水村美苗著「日本語が滅びるとき」にも記述されているように、「書き言葉」であった。


「書き言葉」の役割は、人と人が顔を合わせていなくても、場所と時間を超えて会話ができる機能のある言語である。ローマ帝国はこの「書き言葉」で国の言語を統一させていた。


そしてもう1つ、この「書き言葉」がローマを統一できた理由がある。それは前回も言及した通り、「ラテン語」=「神聖語」だった事実である。ラテン語はキリスト教の聖書が書かれている言語であり、神聖的な権力を保持していた。この権力が、ローマ帝国を1つの国にまとめ続けた大きな理由である。



この続き、ローマ帝国の崩壊から、その後の印欧語族の変遷については、別の頭の整理で書きます。

サークルの今までの経験を振り返ってみよう。


1年スキット:シンデレラをやらされる。「ありえない」と思っていたら、その時の緊張感や達成感が自分が求めていたものなのではないかと、感じ始める。


1年夏キャンプ:ドラマを決意。あの達成感を大学時代でできるだけ味わい続けたいと思った。


1年秋:初公演。役者として本格的に参加した、最初で最後の公演。表舞台でお客さんに観られる緊張が乗り越えたときの達成感に変わる瞬間の味を知ってしまう。当時は「ひとまず先輩についていく」ことしかできなかったので、何かを考えながら行動するというよりかは、行動力で勝負していた感じ。


1年春キャンプ:サブディレの難しさを知る。そんなに思い出ないけど、今考えてみると、人の下に入って働いた経験がこれくらいしかない。もっと、人をサポートする役職について、その時の奥深さを経験できれば良かったと感じる。本音を言ってしまうと、自分は自分に対して相当な自信があるから、下から支えるという作業に今のままでは向いていないのかもしれない。引退後、今後1年間の課題になるだろう。


2年春公演:初舞台監督の公演。こんなに失敗した経験は今までになかった。1年秋からの「頭よりも体が先に動く」性格なのに頭を使ったふりをした結果、エゴイスティックな舞台監督に終始してしまった。ただ、その時の反省点を常に生かしながら引退まで自分を引っ張ってこれたのは収穫であると思う。この自分の成長のために犠牲を強いてしまった仲間、本当にごめんなさい。


2年夏キャンプ:ディレク。Sister Actをやる。目標をあまりに明確に設定し、それに向かって突き進んだ結果、目標を達成できた。また同時に別の仕事も兼任したおかげで自分の限界を広げることができたと思っている。


2年秋公演:舞台監督。最後の舞台監督。集大成の気持ちで挑んだ。自分自身の仕事にも全力で取り組み、「回転舞台」という挑戦を試みると同時に、監督としての「メタレベル」な視点を常に忘れないようにし、当時の1年生に最高の経験をさせてあげることができたと思っている。


2年春キャンプ:ディレク。Stand By Meをやる。これは「作品」として自分のわがままを通させてもらったもの。目標は最初から「ベストスキット」と公言しといて、実際ベストスキットを獲得できた。このときのメンバーで公演をやりたいくらい、自信のあった作品。今改訂するチャンスがあるならば、もっと最高の作品を作ることができる自信がある。


3年春公演:舞台監督補佐、映像オペ、役者。オペの難しさを痛感した作品。もう正直オペはやりたくないと心の底が叫んでいるけど、リベンジとしてやり直したい気持ちもある。舞台監督補佐としては、自分はサポートするというより、会社でいう「会長」みたいな感じで舞台監督を影で教育する(言葉が悪くて申し訳ない)感じだったので、1年春のキャンプみたいな立場ではなかった。この公演の収穫は、新舞台監督のスタイルが自分のそれと全く異なっていたのにも関わらず、自分のやり方を押し付けず自由に考えながらやるチャンスを与えられたこと。これは向こうにとっては大変だったかもしれないけど、自分のコントロール術を初めて使い始められたという点では、新たな1歩だった。


3年夏キャンプ:ディレク。最後のキャンプもディレク。これはそんなに強いこだわりを持ったわけではなく、「自然体」を意識した作品だった。マネージメントに関しては、のんびりしすぎて慌てたけど、最終的にOKな状態に持って行けたので、良しとしておこう、って感じ。最後のサマキャンらしく、楽しむことができたと思う。


3年秋公演:舞台美術。最後がなんで美術なのかという根本的な質問はさておき、苦労しながらも、迷惑かけながらも、無事に最後までたどり着くことができた。最後の公演については反省点が大量にあると思われるので、ここではなく、公式な反省会で発表しようと思う。



日記がこんなに長くなるほど自分は1つの活動に全力を注いできた。

この収穫はいつか自分の中で糧となり実るだろうし、実った後も腐らないように、自分の土壌を肥えたものにしなければならないだろう。

サークル引退。


俺のサークル人生は本当に有意義なものだったと思う。何よりもそうしてくれたのは環境だ。先輩が1人しかいなかった環境は、自分に「学ぶ先輩が現場にいない」という状況を作り出してくれた。それはそれで苦労もものすごくあったけれども、「自分で考え抜く」機会であったのは間違いない。


この「考え抜く」という作業。正解不正解は重要ではないんだろう。俺だって数多くの不正解を導いてしまったはずだ。でも、重要なのは「不正解をしないようにすること」ではなくて、「いかにやってしまった不正解を不正解じゃないように改善していけるか」だったと思う。


特に、俺がいたサークルの環境ではそうだろう。まず「サークル」という組織の定義から考えて「不正解を責める」ことは好ましいことではないし、さらに「演劇」という新しい挑戦を皆でやっているわけだから、ミスが出てきてしまうのは仕方がないことだ。


要するに、起こってしまった事態を


Problem


ととらえるのではなく


Bad situation


と捉える姿勢ということだ。



こんなに真剣に何かに夢中で打ち込んだことは今までになかったかな。本当に自分の心の中でオアシスとなりうる思い出になっている。この活動から本当に多くのことを学んだことを卒業間近になって気づく。でも、やってる時は「学ぶ」なんてこと一切考えてなくて、ただ我武者羅に自分の仕事に没頭していた。


もしかしたら、この「我武者羅さ」が一番大きな収穫だったかもしれない。



とある説明会で「どんなにすぐれたシステムを作ったとしても、それはいまだ人間がcreateするものだ」とおっしゃっていた方がいた。


この問題を考えていく時に、まず必要な前提が俺の中で存在していて、

人間の特徴…俺は、「数字にできないこと」であるということ。

「数字にできない」という言葉の定義をもう少し加えておくと、逆説的にはなってるのだが、「個々人を数値化することは可能なのだろうけど、個々人が多様すぎて、”人間”としての一般的な数値を出すことは難しい」ということ。おそらく、すべての人間に当てはまる数値なんて存在しないんだろう。


あー、よくわからない。今度書きなおします。



最後に、なんでこんな事を考えてるかというと、自分が演劇が好きな理由が何なのかを考えていたから。演劇ほど人間臭い芸術はないと思う。で、なんでこの「人間臭さ」が好きなのかが気になっていたのだ。

言語とはもともと「話し言葉」であって、現在の国と結びつく母国語的感覚とは違って宗教と結びついていた。


キリスト教=ラテン語

イスラム教=アラビア語

仏教=漢語

ヒンドゥー教=サンスクリット語


などなど。

その宗教別に集まっていた。だから、同じ宗教である人々が集まって構成された共同体で、1つの言語が話されていたと考えてよい。

ただ、「宗教と結びつく」という事実について逃してはならないのは、宗教というのは、「聖なるもの」という要素があるということだ。つまり、これから想定しうるのは、言語の神聖化が考えられるようになったということである。

そして、「神聖な言語」を手に入れることがそのまま「権力」へと結びつくようになる。たとえばキリスト教であれば、教会の人は「聖なる言語」であるラテン語を読み伝える仕事であるから、自然と一般庶民とは差別化がなされていく。司教達はそれがわかっていたので、一般生活でラテン語を話す文化が途絶えた後であっても「ラテン語=神聖」の方程式を崩さず、自分たちの権力を保護した。(この辺はあっさり書けないので、いずれ別の「頭の整理」で詳しく書きなおす)


しかし、グーテンベルクの印刷技術の発見によって、すべてが変わってゆく。

印刷技術とはどういうことか。今まで、自分たちが「書く」ことで他人との文字のやりとりをしていた。これはいまから考えれば物凄く効率の悪いことだ。1人の書き手に対して、読み手が1人前後であるということだからである。

しかし「印刷」によって、読み手が何人にも増えていくことになる。

これは、どういうことを意味するのか。

読み手の多い言語の価値が上がっていくことを意味する。

このような状況の中で、ラテン語はどうなってしまったかというと、もともとラテン語を理解できたのは、司教たちだけであり、つまり読み手は非常に少なかった。つまり、「印刷」の誕生でラテン語の価値は下がっていくことになるのである。

逆に、価値が上がってきたのは、日常的に使われていた言語たちである。日常的に使うからこそ、需要は高かったのだ。

このようにして、「神聖な言語」であったはずのラテン語が、凋落していった。

この影響は、その後の近代化の流れに大きく影響していった。



と、頭を整理してみたのだが、正直言って最後の1行は気になる。

言語の流れが近代化の流れに先行するのか、それとも、近代化が言語の流れに先行するのかは疑問が残る。


もう1回くらいこの近代化の流れを整理した後、これらの事実を参考にしながら現在の言語の将来を考えてゆきたいと思っています。

がようやくわかった。


「自分の苦手なものにぶつかっていくこと」


だった。今日ようやくわかった。

自分の苦手なもの。それにぶつかっていくことは難しい。本質的にぶつかっていくことなんて、そう簡単にできるものではないと思う。実際は「ぶつかったふり」をしているだけ。自分に何も傷がないように自己防衛本能が勝手に働いてしまうのだ。


自分の苦手なものは何か。「数字」、「地頭力」などなど。理数系に圧倒的に自己防衛本能が働いている。

そして、自分はそれに対してぶつかっているか。否、まったくぶつかったふりをしていて、不戦敗をしたことを悔やんでいる状態だ。


もっともっと、ぶつかっていかなければ。

そして、ぶつかって怪我をしないように、日頃から練習を欠かさずにしなければ。