知りたかった事を見つけた
偶然、多分『元Jr.』のブログを見つけた。
これを読んだら
今まで謎に思ってた事が全部分かって
やけに納得してしまった。
僕が青春時代を捧げたのはサッカーとジャニーズだった。
僕が出入りしていたのはちょうどジャニーズJr全盛期で、今のJrとは比べ物にならないくらいの待遇だった。バブルとはまさにこういった感覚だろう。
ジャニーズjr黄金期の始まりは1995年7月である。
それは新高輪プリンスホテルで行われた、「夏だ!祭りだ!ジャニーズjrカー二バル」が開催されたことによる。
それまで持ち歌も無く、決してスポットライトを浴びることのなかったジャニーズjrが単独コンサートを行うことは異例中の異例であり、まさに革命的な出来事であった。
このコンサートは同年11月にワールドカップバレーでジャニーズ事務所から新ユニット「V6」のデビューが決まり、そのメンバーの最終選考会というのが事務所内の名目であった。
当時のjrのメインは剛健コンビ(森田剛、三宅建)で、彼ら2人のスター性があってこそ成立したコンサートであった。したがってjr黄金期始まりの本当のキッカケはこの剛健コンビであると考えられる。
さてこのコンサート、表向きはV6のプロモーションの一環ということだが、
実際の事務所の狙いはその3ヶ月前に入所した滝沢秀明のお披露目会だった。
なぜそのような回りくどいことをしたのか。
V6のプロモーションと言えばワールドカップバレーを手がるフジテレビからの強力なバックアップを受けることができるからだ。
当時SMAP、TOKIO、kinki kidsの売り出しと光GENJIの処遇、忍者の売り出し撤退に忙しかった事務所にとっては猫の手も借りたいほどで、使えるものは何でも使いたいというのが本音だったように思う。
こうしてまんまと剛健コンビから滝沢世代へのjr内世代交代を「V6のデビュー」という最高の形で実現した事務所は滝沢の売り出しに本腰を入れ始める。
この当時の事務所の最大の失敗は小原裕貴をV6に加入させなかったことだ。
小原でももう1グループ作り、一儲けできると踏んでいた事務所は比較的早い段階でV6メンバーの候補から小原を外していた。
しかし剛健コンビと滝沢世代のちょうど中間にいた彼はどちらとも組むことができず、
かといって同世代でもめぼしい人材が現れなかったため、1人孤立し、そのままアイドルとしての賞味期限を終えてしまった。彼は99年に事務所退所後、亜細亜大学から博報堂へ進んだ。
亜細亜大学から博報堂への入社は普通では考えられない。ジャニーズの圧力でねじ込んだことは容易に想像がつくが、これは事務所からのせめてもの償いであったのだろう。
さて滝沢秀明だ。彼が入所当時、ジャニー喜多川氏の滝沢に対する思い入れはもの凄く、周囲が引くくらいであった。
ジャニー氏は手始めに滝沢を同期の川野、今井と組ませ、ドラマ木曜の怪談に出演させた。
ドラマにジャニーズjrを3人組で出演させるプロモーション手法は
1979年3年B組金八先生のたのきんトリオからの事務所伝統の手法だ。
このことからも正統派に売り出した滝沢への思い入れが伺える。
しかも今井、川野と組ませたのは、あえて滝沢が映えるようにとの配慮で決められた人事だった。
剛健コンビがデビューした後の当時(1996年頃)のjrのトップは滝沢、小原、そして高橋直気だった。
高橋直気も育成に失敗した例だ。
高橋直気のスター性は抜群だった。いや、抜群すぎたのだ。
品行方正で器用、さらに正統派ジャニーズの顔立ちの滝沢と組ませたとしても、高橋はスター性はそれを凌いでいた。SMAPの中居(滝沢)、木村(高橋)のようなツートップ戦略も考えられなくはなかったが、(実際に高橋も木村に憧れて入所した)
中居のようなキャラクター付けを滝沢に植え付けさせることをジャニー氏は嫌がった。
滝沢はあくまで王子様のようなイメージで売り出したかったのだ。
そしてさらに高橋は背が高すぎた。手足の長いモデル体型の高橋と
滝沢が同じグループでは高橋ばかりが目立ってしまう。
何よりジャニーは背の低い中世的な美少年を好んだ。
段々と一線から退いている感触は高橋自身も感じていた。そしてグレていった。
近年だとちょうど赤西仁がそれに近い。亀梨よりも自分の方がスター性が抜群であることは自分でも把握している。ファンだって自分の方が多いだろう。しかし事務所の意向により自分が猛烈にプッシュされることは少ない。
この苛立ちは同じステージで活動してきた者としては想像を絶する。
実力が正当に評価されないことの苛立ちはサラリーマンでも共感できるはずだ。
グレてしまった高橋を事務所はすぐに見放した。
高橋が退所したのは98年である。よく持ったほうだった。
高橋もまた自分と見合う実力の持ち主と出会うことなく大成しなかった。
(小原と高橋を組ませて、KAT-TUNのテイストで売り出せば、大成功していたように思う。)
高橋は99年にSPEEDのメインボーカル島袋と愛の逃避行を繰り返し、
SPEEDを解散に至らしめた張本人として一時期注目を集めたが、ここでは詳細は割愛する。
jr黄金期の始まりである1995年は光GENJIの解散、V6のデビュー、剛健コンビからのJr内世代交代、滝沢秀明のお披露目で幕を閉じた。さらにSMAP、kinki kidsの当たり年でもあり、事務所も相当に慌しい時期だった。
当初期間限定ユニットと目されていたV6は光GENJIの後継としての意味合いと、3rdシングル愛なんだのヒットでジャニー氏が気をよくしたことにより、いつのまにか正式なデビューユニットとなっていた。年が明けて1996年、V6の売り出しが一段落したことにより、事務所は本腰を入れて滝沢の育成に力を入れ始める。
そのメインの取り組みがジャニーズJrの冠番組のスタートだった。「愛LOVEジュニア」の放送スタートである。
先輩格のV6でさえ冠番組を持っていなかった当時、ジュニアの冠番組を優先させたことから見ても、いかに滝沢がV6よりも大事に扱われていたかがわかる。
この愛LOVEジュニアが黄金期への起爆剤となった。
今まではアイドル雑誌の一部でしか確認できなかったjrが、動画で、しかもテロップまで出されている。
それまではデビュー組から自分のお気に入りを見つけるしか無かったファンにとっても、自分からダイヤの原石を探せるのは当時のファンにとっては新鮮だっただろう。
何せまだインターネットも普及しきっていない時代だ。
「選ぶ選択」を与えられたことにより、よりジャニーズファンの層に広がりを見せた。
それにジャニーズのメイン顧客層はローティーンの女子である。
すでに高校生世代であったデビュー組のV6、kinkikidsでは年齢が離れすぎていた。
それよりもファンである自分達と同世代のローティーンアイドル予備軍の方に目が向きやすいのは当然だった。
イケメンの大学生家庭教師よりも、クラスの美少年の方が手が届きやすいような感覚か。
さらに1995年を境にjrのメンバーは増員傾向にあった。
jrのメディア露出が増えたことで、一般の男子中高生にも認知されることとなり、志願者が急増したのだ。
ジャニーズ事務所はそれを利用し、早速滝沢の次の世代の原石を探しにも力を入れていた。
その波の中で入所したのが現在の嵐のメンバーやKATーTUNのメンバー、山下智久、生田嶋真などだ。多分ピーク時では300人とも400人とも言われている。自分達でもわからない。
これほどの中からなら誰でも自分の好みを選べるのだろう。
かくしてJrの黄金期が始まった。
露出が増え、志願者が増え、また新たなスターが生まれまた注目されるという正のスパイラルが生まれていた。
僕が出入りしていたのはちょうどジャニーズJr全盛期で、今のJrとは比べ物にならないくらいの待遇だった。バブルとはまさにこういった感覚だろう。
ジャニーズjr黄金期の始まりは1995年7月である。
それは新高輪プリンスホテルで行われた、「夏だ!祭りだ!ジャニーズjrカー二バル」が開催されたことによる。
それまで持ち歌も無く、決してスポットライトを浴びることのなかったジャニーズjrが単独コンサートを行うことは異例中の異例であり、まさに革命的な出来事であった。
このコンサートは同年11月にワールドカップバレーでジャニーズ事務所から新ユニット「V6」のデビューが決まり、そのメンバーの最終選考会というのが事務所内の名目であった。
当時のjrのメインは剛健コンビ(森田剛、三宅建)で、彼ら2人のスター性があってこそ成立したコンサートであった。したがってjr黄金期始まりの本当のキッカケはこの剛健コンビであると考えられる。
さてこのコンサート、表向きはV6のプロモーションの一環ということだが、
実際の事務所の狙いはその3ヶ月前に入所した滝沢秀明のお披露目会だった。
なぜそのような回りくどいことをしたのか。
V6のプロモーションと言えばワールドカップバレーを手がるフジテレビからの強力なバックアップを受けることができるからだ。
当時SMAP、TOKIO、kinki kidsの売り出しと光GENJIの処遇、忍者の売り出し撤退に忙しかった事務所にとっては猫の手も借りたいほどで、使えるものは何でも使いたいというのが本音だったように思う。
こうしてまんまと剛健コンビから滝沢世代へのjr内世代交代を「V6のデビュー」という最高の形で実現した事務所は滝沢の売り出しに本腰を入れ始める。
この当時の事務所の最大の失敗は小原裕貴をV6に加入させなかったことだ。
小原でももう1グループ作り、一儲けできると踏んでいた事務所は比較的早い段階でV6メンバーの候補から小原を外していた。
しかし剛健コンビと滝沢世代のちょうど中間にいた彼はどちらとも組むことができず、
かといって同世代でもめぼしい人材が現れなかったため、1人孤立し、そのままアイドルとしての賞味期限を終えてしまった。彼は99年に事務所退所後、亜細亜大学から博報堂へ進んだ。
亜細亜大学から博報堂への入社は普通では考えられない。ジャニーズの圧力でねじ込んだことは容易に想像がつくが、これは事務所からのせめてもの償いであったのだろう。
さて滝沢秀明だ。彼が入所当時、ジャニー喜多川氏の滝沢に対する思い入れはもの凄く、周囲が引くくらいであった。
ジャニー氏は手始めに滝沢を同期の川野、今井と組ませ、ドラマ木曜の怪談に出演させた。
ドラマにジャニーズjrを3人組で出演させるプロモーション手法は
1979年3年B組金八先生のたのきんトリオからの事務所伝統の手法だ。
このことからも正統派に売り出した滝沢への思い入れが伺える。
しかも今井、川野と組ませたのは、あえて滝沢が映えるようにとの配慮で決められた人事だった。
剛健コンビがデビューした後の当時(1996年頃)のjrのトップは滝沢、小原、そして高橋直気だった。
高橋直気も育成に失敗した例だ。
高橋直気のスター性は抜群だった。いや、抜群すぎたのだ。
品行方正で器用、さらに正統派ジャニーズの顔立ちの滝沢と組ませたとしても、高橋はスター性はそれを凌いでいた。SMAPの中居(滝沢)、木村(高橋)のようなツートップ戦略も考えられなくはなかったが、(実際に高橋も木村に憧れて入所した)
中居のようなキャラクター付けを滝沢に植え付けさせることをジャニー氏は嫌がった。
滝沢はあくまで王子様のようなイメージで売り出したかったのだ。
そしてさらに高橋は背が高すぎた。手足の長いモデル体型の高橋と
滝沢が同じグループでは高橋ばかりが目立ってしまう。
何よりジャニーは背の低い中世的な美少年を好んだ。
段々と一線から退いている感触は高橋自身も感じていた。そしてグレていった。
近年だとちょうど赤西仁がそれに近い。亀梨よりも自分の方がスター性が抜群であることは自分でも把握している。ファンだって自分の方が多いだろう。しかし事務所の意向により自分が猛烈にプッシュされることは少ない。
この苛立ちは同じステージで活動してきた者としては想像を絶する。
実力が正当に評価されないことの苛立ちはサラリーマンでも共感できるはずだ。
グレてしまった高橋を事務所はすぐに見放した。
高橋が退所したのは98年である。よく持ったほうだった。
高橋もまた自分と見合う実力の持ち主と出会うことなく大成しなかった。
(小原と高橋を組ませて、KAT-TUNのテイストで売り出せば、大成功していたように思う。)
高橋は99年にSPEEDのメインボーカル島袋と愛の逃避行を繰り返し、
SPEEDを解散に至らしめた張本人として一時期注目を集めたが、ここでは詳細は割愛する。
jr黄金期の始まりである1995年は光GENJIの解散、V6のデビュー、剛健コンビからのJr内世代交代、滝沢秀明のお披露目で幕を閉じた。さらにSMAP、kinki kidsの当たり年でもあり、事務所も相当に慌しい時期だった。
当初期間限定ユニットと目されていたV6は光GENJIの後継としての意味合いと、3rdシングル愛なんだのヒットでジャニー氏が気をよくしたことにより、いつのまにか正式なデビューユニットとなっていた。年が明けて1996年、V6の売り出しが一段落したことにより、事務所は本腰を入れて滝沢の育成に力を入れ始める。
そのメインの取り組みがジャニーズJrの冠番組のスタートだった。「愛LOVEジュニア」の放送スタートである。
先輩格のV6でさえ冠番組を持っていなかった当時、ジュニアの冠番組を優先させたことから見ても、いかに滝沢がV6よりも大事に扱われていたかがわかる。
この愛LOVEジュニアが黄金期への起爆剤となった。
今まではアイドル雑誌の一部でしか確認できなかったjrが、動画で、しかもテロップまで出されている。
それまではデビュー組から自分のお気に入りを見つけるしか無かったファンにとっても、自分からダイヤの原石を探せるのは当時のファンにとっては新鮮だっただろう。
何せまだインターネットも普及しきっていない時代だ。
「選ぶ選択」を与えられたことにより、よりジャニーズファンの層に広がりを見せた。
それにジャニーズのメイン顧客層はローティーンの女子である。
すでに高校生世代であったデビュー組のV6、kinkikidsでは年齢が離れすぎていた。
それよりもファンである自分達と同世代のローティーンアイドル予備軍の方に目が向きやすいのは当然だった。
イケメンの大学生家庭教師よりも、クラスの美少年の方が手が届きやすいような感覚か。
さらに1995年を境にjrのメンバーは増員傾向にあった。
jrのメディア露出が増えたことで、一般の男子中高生にも認知されることとなり、志願者が急増したのだ。
ジャニーズ事務所はそれを利用し、早速滝沢の次の世代の原石を探しにも力を入れていた。
その波の中で入所したのが現在の嵐のメンバーやKATーTUNのメンバー、山下智久、生田嶋真などだ。多分ピーク時では300人とも400人とも言われている。自分達でもわからない。
これほどの中からなら誰でも自分の好みを選べるのだろう。
かくしてJrの黄金期が始まった。
露出が増え、志願者が増え、また新たなスターが生まれまた注目されるという正のスパイラルが生まれていた。
つづく
