男と猫



僕は夕食の食材を買い求めるべく、綾瀬のイトーヨーカ堂に向っていた。グレーのチノパンツとモスグリーンのセーターを着、ブルーのアンダーシャツを着て。ちょっと古びたカーキの靴がぎこちなかったが、やや不具合に我慢しなければいけないことを除けば、申し分ないショッピング・スタイルだった。
僕は入り口に立ち、あらかじめ書き留めておいたメモを開いた。生鮮コーナーに立ち、ピーマンとオニオンとズッキーニをカートに入れ、スパイスのコーナーに向った。バジルとセージをそこから選び、はてさて、これ以上は必要ないなと、うろちょろしていると、同じマンションの男に出くわした。彼は大きなポリ袋を両手に抱えていた。
「こんにちは。」僕も「こんにちは」と言った。彼は額に汗をかいて少々疲れ気味に
「どうですか、コーヒーでもいかがですか。」と言った。僕は急いでもいなかったので
「いいですよ、そこのコーヒー・コーナーに行きましょう。」と答えた。
彼は席に着くなりハンカチで額の汗を拭い、しきりに床に置いた買い物袋を置き直したり、持ち上げたりしていた。そして一段落すると、僕の顔を照れ臭そうに見、
「実は、僕は今、困惑しているのです。」と言って背広の内ポケットから数枚の便箋を取り出した。
「こうなんです。別れた妻から手紙があって、その内容が実に奇妙なんです。」彼はぶ厚い手で、その便箋を広げ僕に読んでくれと言った。僕はそんな人のプライバシーを覗き見することはいやだったが、彼の真剣な態度に、やむやむ読んでみようとした。内容はこうだった。
「あなたは、以前、私にこう言ったことがあったわね。絶対死ぬまで一緒だと。私はそれを真に受けて結婚したのだけれども、いつも夜中に起きだして外出していたわよね。私はそれは不思議ではなかったの。何か切羽詰った出かけなくてはいけないことだと理解してた。でも、残った私は一人で一体、何をしてくるのだろうと考えると、もう眠れなかった。そして、ある夜、いつものようにあなたが夜起きだして外に出かけようとした時、私は後をつけようと決心したの。何かを見極めようとしたの。」
僕はそこまで読んで、ふむ、ここまではありふれた夫婦の生活だなと思い、ペラペラとあと何枚あるのかなと枚数を数えてみた。あと5枚はありそうだった。僕は濡れたコースターからアイスコーヒーのグラスを剥がし口の渇きを潤し、彼の顔を窺った。彼はまだしきりにハンカチで顔の汗を拭い、せっかちに何度もコーヒーのストローに口を運んでいた。僕が手紙を読むのをちっとも気にしてないように。
僕は定められたように、決定的に、手紙に目を落とし続きを読んだ。
「私はあなたがドアを閉めたすぐ後、そっと身を潜め、後をつけました。階段を足音を立てずに、気付かれないようになるべく暗がりを進みました。あなたは外に出るとゆっくりと公園の方へ歩いて行きました。街路灯があなたの広い背中を照らし、あなたが何も疑っていないことを示していることを知りました。あなたは当然、いつもの当たり前の自分の人生には欠かせない、ありふれた自信を漲らせていました。私は木立の影を伝い、あなたが歩みを止めるのを待ちました。あなたは公園のベンチに座ると口笛を吹き何かを呼んでいる様子でした。すると生垣の影から数匹の猫が集まってくるではないですか。あなたはその一匹一匹の頭を撫ぜ、ポケットからチョコレートを取り出し、与えるではありませんか。」
僕はふむ、これは少々、異常ではないが、まあ結婚している夫の普通の行動にしては並なことではない。何が彼をそうさせているのかに関心を持った。そして、何度かテーブルを指でトントンと叩き、彼に尋ねてみた。
「奥さんとは性生活で満足なされていたのでしょうか?」
彼は当たり前のようになんのためらいもなく、
「勿論。」と答えた。僕は彼に失礼なことを聞いた、気にしないでくれとうなずき、続きを読んだ。
「私は、一体、あなたが何故そのようなことを満足気にしているのか理解出来ませんでした。わたしはたまらず、もと来た道を戻ってマンションの部屋に帰りベッドに入りました。それは長い一夜でした。あなたが三時頃、家に帰りわたしのそばのベッドに入り寝息を立てて寝てからも私は朝まで眠れませんでした。そして私は納得したのです。あなたの睡眠にはあの行動が欠かせないんだと言うことを。人が無理せずよい睡眠を得るためにはたとえ奇怪な行動だとしてもそれが必要なんだと言うことを。でも、理解して欲しいの。離婚した原因はそこにあったのではないことを。正直言って私には好きな男性がいたの。あなたのことを嫌っていたわけではなく、彼は私にとって必要な存在だったの。奇怪な行動は別に、私にとって、あなたの浮気とか変態とか私が判断したわけではないのです。人生が滞りなく過ごすためだったら何だって許されてかまわないと思います。何故、そうしたかったかなどというのはわからなくてもいいと思うのです。でも、ごめんなさい。私はあなたと離婚した。」
僕はそこで、ある考えが浮かんだ。ある種の満足感があったとしても、人生は流れに抗しがたいものだということを。たとえば水が流れやすい方に流れる如く、決して流れ難い方へは流れないように。
そして、今日の買い物の品々を思ってみた。ピーマン?オニオン?ズッキーニ?バジルとセージ?--------? 果たして何が出来るんだ?僕は考え違いをしていたのか?何を作ろうとしていたんだ?僕は思い直し、最後の便箋の二枚を読んだ。
「私に好きな男性が現れたと言うことは、必然だったのです。あなたと違って男らしいと言うわけではありませんが、私にとって未知な存在だったのです。私とは異質だったのです。あなたの奇怪な行動は私は理解しようとしませんが、私にとって認められる行動なのです。要は、決定的な要因は、もう元には戻れないと言うことです。私があなたの秘密を知った前からその発端は始まっていました。ひとつ、あなたに質問します。あなたは私のすべてを必要としていましたか?この答えはいつでもいいです。機会があったら教えて下さい。私は今、とても幸せな生活を送っています。どうぞ、あなたも幸せな人生を歩んでください。」
僕は手紙を読みきり、丁寧に折りたたんで男に返した。深夜、起き出して、猫にチョコレートをやる?僕はその問いを二、三度、頭に考え浮かべてみた。確かに奇異ではあるが、決していけないことではない。その男は額の汗を相変わらずハンカチで拭い、実直そうにそのハンカチを折りたたんでいた。そして、飲み物も飲みきったので僕らはコーヒーショップを出た。出口のところで僕は男と別れた。
僕は帰り足、また考えた。普通の夫婦の夫が深夜起きだし、公園に行って猫にチョコレートをやる?僕は何とも分かりきれぬ思いで家へ帰った。
                        (了)