10
昭和十四年五月、連隊は襄陽東北地区東陽付近で襄陽作戦に参戦、中国軍に大損害を与え、その翌年二月、漢水河畔の旧口鎮付近を警備中、冬期攻勢の中国軍三万人が渡河して連隊正面に進出して来た。連隊の各警備隊は各所で孤立した。特に多宝湾周辺地区の戦闘は惨烈をきわめ、私の小隊も河畔で中国の兵士四百人に包囲された。いくらかの銃撃戦があり私は初めて敵兵を殺す経験をした。その後、何人もの敵兵士を殺すことになるのだが、私の撃った弾が、ひそんでいる私の方へ、銃をかまえかけ寄ってきた一人の中国兵士の腹に当たったのだ。その兵士は 「うぉ。」 と声を上げ地面に倒れ血を流して死んだ。私は今まで何度も銃を撃ったことはあったが、目の前で人を殺すことはなかった。私は手の震えをおさえられなかったことを覚えている。同時に私の隊の五十嵐一等兵が右太股に銃創の重傷を負った。彼は応急手当てを受け、輜重兵によって第四野戦病院へ運ばれた。連隊の戦死傷者は三百三名を数えた。
そして五月、第一次ノモンハン事件が満州西北部で発生、関東軍はソ蒙軍に攻撃を加えた。十一日、外蒙軍小部隊越境、十三日、東支那 (第二十三師団捜索隊基幹) ハイラル出発、ノロ高地付近進出後十七日帰還。二十一日、山県支隊 (山県武光大佐、歩兵第六十四連隊、捜索基幹) 出動、第十二飛行団 (東栄治少将) 支援。二十八日、山県支隊ホルステン河北岸川また北方地区の敵を攻撃、ソ蒙軍の大攻勢にあい捜索隊の損害多く三十一日夜から反転。
第二次ノモンハン事件、六月二十日関東軍第二十三師団に第一戦車団 (安岡正臣中将)、歩兵第六十四連隊主力などを増強。二十七日、第二飛行団 (儀峨徹二中将) 関東軍の命で外蒙領内のタムスク空襲、七月一日第二十三師団主力、ハルハ河左岸、安岡支隊は同河右岸を攻撃、敵の砲兵、戦車が優勢なため不成功。十日安岡支隊兵力増強再攻撃も不成功。二十五日、砲兵団 (内山英太郎少将) による砲兵戦主体にホルステン河両岸の敵陣地を攻撃、不成功。二十五日第二十三師団、持久守勢に転換、築城下命、八月四日第六軍司令部の編組発令 (司令官、荻州立兵中将)、九月欧州戦争勃発、日ソともに早期終結を図り、十五日停戦協定成立して一応の決着はついた。関東軍および日本側出動人員五万八千九百二十五人、戦死傷者一万九千九百四人。ソ蒙軍 (司令官、ジューコフ大将) 狙撃三個師団、二個装甲旅団、二個戦車旅団、二個外蒙騎兵師団その他、ソ蒙側戦死傷者九千八百二十四人だった。
中国戦線では第二十一軍が南寧大作戦を実施、南寧、竜州を占領、十二月中旬、中国軍の大反撃、第二十一軍との大激戦になるが広東から南寧に増援兵力を転用した第二十一軍が中国軍を撃破した。特に漢口、蒙彊では事変勃発以来最大規模で、中国軍の戦意が衰えていないことを知った。汪兆銘の新中国政権樹立、桐工作 (重慶脱出、上海で工作、南京で樹立) 昭和十五年三月、日本の特命全権大使、阿部信行との間で日華基本条約締結、年内解決を試みるが九月には挫折。十五年五月に我々第六十五連隊は第一次宜昌作戦に参加、その月に独軍が西欧進攻を開始、成果を挙げ日本でも東南アジアの英、仏、蘭の植民地に進出しようとしたが陸軍の対南方作戦準備は不十分で、作戦計画の研究、部隊の編成改正、訓練に着手した。続いて第二次宜昌作戦にも参加、六月一日、漢水の奇襲渡河により建陽駅、半月山、石子嶺を抜き龍泉舗から宗家咀を攻略、宜昌の北方地区一帯を掌握、陸海軍協同の奥地航空進攻作戦により戦果を挙げ九日、北部仏印に進駐、補給路を遮断し、なおかつ日、独、伊三国同盟締結。米、英国と強く対立。日米通商条約の失効、鉄、油の取得のため日本は対米、対蘭交渉を続けた。十二月、連隊は龍泉舗に中支軍の最前線部隊として本部を移し、陣地を構築した。しかし中国側は米、英両国等の支援により抗日意思を堅持、長期戦方策をとらねばならなかった。
戦闘は続き、昭和十六年一月には長橋渓の左岸地区で、三月には宜昌西方突破作戦、七月から八月にかけて宜昌北方作戦へと続いた。北支方面軍は五月、山東省南部を根拠とする衛立煌指揮下の二十六個師団中国軍を包囲撃滅戦、中原会戦、百号作戦で多大な戦果をおさめた。六月、独ソ両国の開戦。日本はそれを機に南・北二正面への攻撃準備をし、形勢観望、攻勢方向を決定する準備陣戦略を用いた。七月七日、北方作戦準備のため 「関東軍特種演習」 の未曾有の大動員が行われた。八十五万態勢、船舶八十万屯、徴傭、動員の規模は五十五万、馬匹十三万の構想であった。
関特演と併行して七月末、第二十五軍が南部仏印に進駐、ところがその企画を察知していた米国は二十五日在米日本資産の凍結を発令し、英、蘭がこれにならった。八月一日、米国は全面的対日禁輸を発動、日本は燃料問題で絶体絶命の苦境に陥った。一方、独ソ戦は進展したが極東ソ軍の兵力はあまり減らず、陸軍は年内の対北方武力行使を断念した。九月、第十三師団は第二次長沙作戦のため第二十六旅団を抽出した。私もその旅団の一小隊に選ばれた。このため宜昌近辺の兵力が著しく減少し、その機を見透かしていた中国軍は十五師団をもって宜昌を奪還すべく反撃に転じ、師団司令本部を包囲した。第六十五連隊と第一○四連隊は司令本部を救出するため激烈な戦闘を展開し、私たちの旅団が帰着するまで死守することが出来た。そこで私は犬塚大尉中隊長の戦死と横山少佐大隊長の右腕負傷の事実を知った。連隊のその他の将兵に多くの死傷者が出てもいた。
昭和十六年九月、東条英機内閣が成立し、日米交渉を続けながら陸軍は南方作戦使用予定諸部隊の編制改正、装備の充足、教育訓練を始めた。しかし交渉が不調に終わり米国からハル・ノートが提議され、日本は対米英蘭開戦を決定、十二月八日、陸軍のマレー、海軍のハワイに対する奇襲によって太平洋戦争の火蓋は切っておとされた。その報せを知ったのは、その私が第二十六旅団で宜昌に帰り、第十三師団司令本部を救出した第六十五連隊と合流した時でもあった。そしてすぐ私は中尉に昇進、中隊長の令が師団命令で下った。昭和十七年、木下少佐大隊長のもと三名の中隊長とともに、上に服部中佐連隊長を拝し、広範な湖南省の要衝を数々巡る戦闘に明け暮れた。その年の五月、今でも忘れもしない浙贛作戦に鉄道第四連隊、自動車第一連隊などと共に、参加することになる。
それは四月十八日、米軍B25爆撃機が十数機、突然、東京、大阪、名古屋を空襲した、いわゆるドゥリットル爆撃隊の本土初空襲を受けての作戦であった。大本営のショックは大きく、空母からの飛行はわかるがその滑走距離から空母着艦はむずかしく、調査の結果、浙江省西部、浙贛線沿線、衢江沿岸の街、衢陽飛行場に着陸する計画であったことが判明、ただちに大本営は麗水、金華、衢県 (浙江省)、吉安、贛州、 南城、玉山 (江西省)、衡陽、株州、芷江 (湖南省)などの重慶飛行場の破壊と金華、玉山、麗水の飛行場を占拠しようとする七万人の兵士を集めた、その年の作戦で最大のものであった。それは杭州 (浙江省) から南昌 (江西省=贛) を結ぶ浙贛鉄道の名をとってつけられた大作戦であった。そんな大本営の真意はわからなかったが、私たち第六十五連隊は黙々と中国軍の陣地を攻撃したり、それらの飛行場破壊に工作する部隊の援護などをしていた。
昭和十四年五月、連隊は襄陽東北地区東陽付近で襄陽作戦に参戦、中国軍に大損害を与え、その翌年二月、漢水河畔の旧口鎮付近を警備中、冬期攻勢の中国軍三万人が渡河して連隊正面に進出して来た。連隊の各警備隊は各所で孤立した。特に多宝湾周辺地区の戦闘は惨烈をきわめ、私の小隊も河畔で中国の兵士四百人に包囲された。いくらかの銃撃戦があり私は初めて敵兵を殺す経験をした。その後、何人もの敵兵士を殺すことになるのだが、私の撃った弾が、ひそんでいる私の方へ、銃をかまえかけ寄ってきた一人の中国兵士の腹に当たったのだ。その兵士は 「うぉ。」 と声を上げ地面に倒れ血を流して死んだ。私は今まで何度も銃を撃ったことはあったが、目の前で人を殺すことはなかった。私は手の震えをおさえられなかったことを覚えている。同時に私の隊の五十嵐一等兵が右太股に銃創の重傷を負った。彼は応急手当てを受け、輜重兵によって第四野戦病院へ運ばれた。連隊の戦死傷者は三百三名を数えた。
そして五月、第一次ノモンハン事件が満州西北部で発生、関東軍はソ蒙軍に攻撃を加えた。十一日、外蒙軍小部隊越境、十三日、東支那 (第二十三師団捜索隊基幹) ハイラル出発、ノロ高地付近進出後十七日帰還。二十一日、山県支隊 (山県武光大佐、歩兵第六十四連隊、捜索基幹) 出動、第十二飛行団 (東栄治少将) 支援。二十八日、山県支隊ホルステン河北岸川また北方地区の敵を攻撃、ソ蒙軍の大攻勢にあい捜索隊の損害多く三十一日夜から反転。
第二次ノモンハン事件、六月二十日関東軍第二十三師団に第一戦車団 (安岡正臣中将)、歩兵第六十四連隊主力などを増強。二十七日、第二飛行団 (儀峨徹二中将) 関東軍の命で外蒙領内のタムスク空襲、七月一日第二十三師団主力、ハルハ河左岸、安岡支隊は同河右岸を攻撃、敵の砲兵、戦車が優勢なため不成功。十日安岡支隊兵力増強再攻撃も不成功。二十五日、砲兵団 (内山英太郎少将) による砲兵戦主体にホルステン河両岸の敵陣地を攻撃、不成功。二十五日第二十三師団、持久守勢に転換、築城下命、八月四日第六軍司令部の編組発令 (司令官、荻州立兵中将)、九月欧州戦争勃発、日ソともに早期終結を図り、十五日停戦協定成立して一応の決着はついた。関東軍および日本側出動人員五万八千九百二十五人、戦死傷者一万九千九百四人。ソ蒙軍 (司令官、ジューコフ大将) 狙撃三個師団、二個装甲旅団、二個戦車旅団、二個外蒙騎兵師団その他、ソ蒙側戦死傷者九千八百二十四人だった。
中国戦線では第二十一軍が南寧大作戦を実施、南寧、竜州を占領、十二月中旬、中国軍の大反撃、第二十一軍との大激戦になるが広東から南寧に増援兵力を転用した第二十一軍が中国軍を撃破した。特に漢口、蒙彊では事変勃発以来最大規模で、中国軍の戦意が衰えていないことを知った。汪兆銘の新中国政権樹立、桐工作 (重慶脱出、上海で工作、南京で樹立) 昭和十五年三月、日本の特命全権大使、阿部信行との間で日華基本条約締結、年内解決を試みるが九月には挫折。十五年五月に我々第六十五連隊は第一次宜昌作戦に参加、その月に独軍が西欧進攻を開始、成果を挙げ日本でも東南アジアの英、仏、蘭の植民地に進出しようとしたが陸軍の対南方作戦準備は不十分で、作戦計画の研究、部隊の編成改正、訓練に着手した。続いて第二次宜昌作戦にも参加、六月一日、漢水の奇襲渡河により建陽駅、半月山、石子嶺を抜き龍泉舗から宗家咀を攻略、宜昌の北方地区一帯を掌握、陸海軍協同の奥地航空進攻作戦により戦果を挙げ九日、北部仏印に進駐、補給路を遮断し、なおかつ日、独、伊三国同盟締結。米、英国と強く対立。日米通商条約の失効、鉄、油の取得のため日本は対米、対蘭交渉を続けた。十二月、連隊は龍泉舗に中支軍の最前線部隊として本部を移し、陣地を構築した。しかし中国側は米、英両国等の支援により抗日意思を堅持、長期戦方策をとらねばならなかった。
戦闘は続き、昭和十六年一月には長橋渓の左岸地区で、三月には宜昌西方突破作戦、七月から八月にかけて宜昌北方作戦へと続いた。北支方面軍は五月、山東省南部を根拠とする衛立煌指揮下の二十六個師団中国軍を包囲撃滅戦、中原会戦、百号作戦で多大な戦果をおさめた。六月、独ソ両国の開戦。日本はそれを機に南・北二正面への攻撃準備をし、形勢観望、攻勢方向を決定する準備陣戦略を用いた。七月七日、北方作戦準備のため 「関東軍特種演習」 の未曾有の大動員が行われた。八十五万態勢、船舶八十万屯、徴傭、動員の規模は五十五万、馬匹十三万の構想であった。
関特演と併行して七月末、第二十五軍が南部仏印に進駐、ところがその企画を察知していた米国は二十五日在米日本資産の凍結を発令し、英、蘭がこれにならった。八月一日、米国は全面的対日禁輸を発動、日本は燃料問題で絶体絶命の苦境に陥った。一方、独ソ戦は進展したが極東ソ軍の兵力はあまり減らず、陸軍は年内の対北方武力行使を断念した。九月、第十三師団は第二次長沙作戦のため第二十六旅団を抽出した。私もその旅団の一小隊に選ばれた。このため宜昌近辺の兵力が著しく減少し、その機を見透かしていた中国軍は十五師団をもって宜昌を奪還すべく反撃に転じ、師団司令本部を包囲した。第六十五連隊と第一○四連隊は司令本部を救出するため激烈な戦闘を展開し、私たちの旅団が帰着するまで死守することが出来た。そこで私は犬塚大尉中隊長の戦死と横山少佐大隊長の右腕負傷の事実を知った。連隊のその他の将兵に多くの死傷者が出てもいた。
昭和十六年九月、東条英機内閣が成立し、日米交渉を続けながら陸軍は南方作戦使用予定諸部隊の編制改正、装備の充足、教育訓練を始めた。しかし交渉が不調に終わり米国からハル・ノートが提議され、日本は対米英蘭開戦を決定、十二月八日、陸軍のマレー、海軍のハワイに対する奇襲によって太平洋戦争の火蓋は切っておとされた。その報せを知ったのは、その私が第二十六旅団で宜昌に帰り、第十三師団司令本部を救出した第六十五連隊と合流した時でもあった。そしてすぐ私は中尉に昇進、中隊長の令が師団命令で下った。昭和十七年、木下少佐大隊長のもと三名の中隊長とともに、上に服部中佐連隊長を拝し、広範な湖南省の要衝を数々巡る戦闘に明け暮れた。その年の五月、今でも忘れもしない浙贛作戦に鉄道第四連隊、自動車第一連隊などと共に、参加することになる。
それは四月十八日、米軍B25爆撃機が十数機、突然、東京、大阪、名古屋を空襲した、いわゆるドゥリットル爆撃隊の本土初空襲を受けての作戦であった。大本営のショックは大きく、空母からの飛行はわかるがその滑走距離から空母着艦はむずかしく、調査の結果、浙江省西部、浙贛線沿線、衢江沿岸の街、衢陽飛行場に着陸する計画であったことが判明、ただちに大本営は麗水、金華、衢県 (浙江省)、吉安、贛州、 南城、玉山 (江西省)、衡陽、株州、芷江 (湖南省)などの重慶飛行場の破壊と金華、玉山、麗水の飛行場を占拠しようとする七万人の兵士を集めた、その年の作戦で最大のものであった。それは杭州 (浙江省) から南昌 (江西省=贛) を結ぶ浙贛鉄道の名をとってつけられた大作戦であった。そんな大本営の真意はわからなかったが、私たち第六十五連隊は黙々と中国軍の陣地を攻撃したり、それらの飛行場破壊に工作する部隊の援護などをしていた。