高句麗、覇権を掌握する
4世紀後半、小獣林王の時に中央集権的体制を整備した高句麗は広開土大王の時に国力が大きく膨張した。広開土大王は遼東を含む満州一帯を掌握し、百済を攻撃して漢江以北を支配した。また、5万の兵を送り新羅に侵入した倭を退け、韓半島(朝鮮半島)南部にまで影響力を行使した。
続いて長寿王の時には首都を平壌に移し(427)南進政策を推進した。これに百済と新羅が羅済同盟(433)を結び対抗したが、高句麗は百済の首都漢城を陥落し漢江流域を占めた。
この時期、高句麗は満州と韓半島にわたる広大な領土を占め、東アジアの強大国に成長した。また、独自の年号を使用するなど、中国と対等であるという認識を示した。
高句麗の最大版図(476)
注 : 写真では百済が全羅道地域をすべて支配していたと記されていますが、実際はそうではなく、馬韓の独自勢力が6世紀まで存在したというのが歴史学界の通説です。
考え方を育てる歴史読み:三国の独自の天下観
東アジアの強大国に成長した高句麗は自らを「天下四方の中心」と自負する天下観を前面に押し出した。 高句麗は自らを天孫国家だと主張し、百済と新羅を服属国のように考えた。 これは広開土大王陵碑によく現れている。 また、永楽のような中国とは異なる独自の年号を使用し、王の称号も中国皇帝と同じだという意味を込めて「太王」または「大王」と呼んだ。 高句麗はこのような独自の天下観と自信を基に、周辺諸国との交流によって発展した。
一方、百済と新羅も独自の天下観を持っていた。 百済は「大王」という君主の称号を使い、馬韓の小国の一部を南の蛮族という意味の南蛮と呼び、耽羅から朝貢を受けた。 新羅は周辺世界を平定するという願いから皇龍寺に木塔を建て、蔚州·川前里刻石と磨雲嶺碑にそれぞれ「太王」、「帝王」という称号を使った。
百済、中興を図る
高句麗の侵略により漢江流域を奪われた百済は首都を熊津(公州)に移し(475)、国力回復のため努力した。6世紀前半、武寧王は地方の22談義に王族を派遣し、地方に対する統制を強化する一方、中国南朝と交流した。
聖王は泗沘(扶余)に都を移し(538)、国号を南扶余に改め百済の中興を図った。また新羅と協力し高句麗から一時漢江下流地域を取り戻したが、新羅の攻撃により再び奪われ管山城の戦いで戦死した。
注 : 現代史学界では、新羅が百済の領土を攻撃し、漢江の下流を奪ったのではなく、百済が何らかの理由で領土を放棄し、新羅が漢江の下流まで進出したのが通説です。
新羅、漢江流域に進出する
新羅は6世紀に入り智證王、法興王の時代を経て飛躍的に発展した。6世紀後半、真興王は花郎徒を国家的な組織に改編し、人材を養成する一方、領土を大きく拡大した。百済と連合し、高句麗を攻撃して漢江上流地域を支配し、百済を攻撃して漢江下流地域まで支配した。その後、大伽耶を征服し伽耶連盟のすべての地域を編入し東海岸に沿って咸興平野まで進出した。
真興王の領土拡張は丹陽新羅赤城碑と4つの真興王巡狩碑から確認できる。漢江流域を支配した新羅は、経済基盤を拡大し、三国間の抗争を主導することができ、中国との直接交流の足場を築いた。
新羅の全盛期(576)
高句麗、隋·唐の侵略を撃退する
6世紀末、南北朝に分裂していた中国を隋が統一し、続いて唐が登場したことで、東アジア情勢に大きな変化が現れた。隋と唐は自国中心の東アジア秩序を確立する上で邪魔になった高句麗を制圧しようとした。隋は数回にわたって高句麗は侵略したが失敗した。特に、隋煬帝は30万の別働隊で平壌城を攻撃したが、乙支門德が率いる高句麗軍が薩水で彼らを大きく退けた(薩水大捷、612)。
隋に続いて登場した唐は、初期には高句麗に友好的だったが、太宗が即位し高句麗を圧迫した。高句麗は遼東に千里の長城を築き、唐の侵略に備えた。唐の侵略の脅威が高まる中、淵蓋蘇文が政変を起こし権力を掌握し、唐に強硬に対抗した。これに対し太宗は淵蓋蘇文の政変を口実に数十万の大軍を率いて高句麗を侵略した。高句麗は遼東城、白岩城などを奪われたが、安市城で唐軍を退けた(645)。その後も数回唐の侵略があったがすべて阻止した。高句麗が隋·唐の侵略を防いだのは中国の韓半島(朝鮮半島)侵略を阻止したという点で意味が大きい。
百済と高句麗の滅亡
高句麗が隋と唐に対抗して戦った時期、百済は新羅を何度も攻撃した。新羅は百済の攻撃により大耶城をはじめとするいくつかの城を奪われ危機を迎えた。すると金春秋を高句麗と倭に送って助けを求めたが、いずれも拒絶された。新羅は再び金春秋を唐に派遣して助けを求め、唐がこれを受け入れ羅唐同盟が締結された(648)。
羅唐連合軍はまず百済を攻撃した。当時百済は義慈王が貴族勢力を抑えて改革を断行したが、頻繁な戦争で支配勢力が分裂し政治が混乱した。このような状況で羅唐連合軍が百済を攻撃して滅亡させた(660)。百済の滅亡以降、黒歯常之は任存城で、福信と道琛は周留城で倭にいた王子豊を王に推戴し、復興運動を起こした。しかし、彼らを助けるために派遣された倭の支援軍が白江(錦江)に敗れ、百済復興軍も鎮圧された。
高句麗は淵蓋蘇文の死後、権力争いで混乱した状況だった。羅唐連合軍はこの隙に平壌城を攻撃し、高句麗を滅亡させた(668)。その後、安勝と剣牟岑が復興運動を展開したが、安勝が剣牟岑を殺し新羅に降伏したことにより失敗した。
礼山任存城(復元、忠南礼山) : 黒歯常之が百済復興運動をリードし、拠点とした場所である。
羅唐戦争と新羅の三国統一
百済と高句麗が滅亡した後、唐が韓半島(朝鮮半島)全体を支配しようとすると、新羅は高句麗復興運動を支援する一方、唐との戦争を始めた。新羅は買肖城と伎伐浦の戦いで勝利し、唐を追い出し三国統一を成し遂げた(676)。
新羅の三国統一は、三国の文化を融合させ民族文化が発展できる土台を築いたということに意義がある。しかし、外勢の唐を引き入れ、大同江以南に限定された不完全な統一だったという点で限界を持っている。



