新羅の統治体制の整備

  文武王の時に三国統一を成し遂げた新羅は、民族統合を図ると同時に王権を強化した。文武王の後を継いだ神文王は金欽突の反乱事件をきっかけに貴族勢力を粛清し国王中心の政治運営を確立した。彼は儒教の政治理念を掲げ、儒学教育のための国学を設立し、禄邑を廃止して貴族の経済基盤を弱めた。また、中央と地方の行政組織及び軍事組織を再整備した。

  新羅は三国統一により広くなった領土と人口の増加を効率的に抑えるため統治体制を整備した。中央行政は王の直属機関である執事部を中心に運営し、官吏の不正を監察する司政府も設置した。

  地方行政は9州5小京体制で整備した。9州の下には郡県を置いて地方官を派遣し、軍事行政上の要地に5小京を設置して首都の金城(慶州)が韓半島(朝鮮半島)の南東に偏っている点を補完した。

  軍事組織は9誓幢10停に編成した。中央軍の9誓幢には高句麗と百済人はもちろん、靺鞨人まで含めて融合を図った。地方には10停を設置したが、各州に1停ずつ配置し、漢州には2停を設置した。

  一方、新羅は統一後に増えた生産資源と労働力をより徹底して管理したが、これは村落文書によく表れている。

 

禄邑 : 禄邑が支給された官吏は、所在地の租税だけでなく、労働力徴発と特産物を収める権限も与えられたものと見える。 神文王の時に廃止された禄邑は景徳王の時に復活した。

 

 

思考を育てる歴史読み:村落文書から見た新羅の農民支配

  新羅の村落文書は村略の経済状況などを調査して記録した文書である。日本の東大寺の正倉院で発見された村落文書は、西原京(今の清州)所属の村をはじめとする4つの村を調査した文書で、村落の名前と所属県、各村落の周り、戸口(人口)の数、馬と牛の数、土地の種類と面積、クワ、マンシュウグルミ、チョウセンマツの数などが記されている。人は男女別に区分し、年齢によって6等級と記録しており、家戸は9等級に分けて把握した。土地は田、畑、麻田などの総面積を分けて記載した。数項目にわたって非常に詳しく記録し、3年間の変動事項を作成した。これにより当時の国が地方の農民を統制し支配した力が非常に大きかったことが分かる。

 

新羅村落文書(日本東大寺正倉院)

 

新羅末期に豪族勢力が成長して後三国が成立する

  新羅は8世紀後半、真骨貴族間の権力争いにより混乱に陥った。恵恭王以降約150年間20人の王が替わるなど真骨貴族間の王位争奪戦により政治が混乱した。

  地方勢力も王位争奪戦に加わり、立て続けに反乱を起こした。真骨出身の金憲昌は自分の父が王になれなかったことに不満を抱き、乱を起こした(822)。清海鎮を中心に海上貿易を主導していた張保皐も中央の権力争いに巻き込まれ、殺害された。

  9世紀末、新羅の中央政治が極度に乱れる中、税負担が増加し自然災害も重なり、農民の生活はさらに苦しくなった。このため、暮らしにくくなった農民は土地を失い、奴婢になったり、草賊になったりした。889年には元宗と哀奴の蜂起をきっかけに、全国各地で農民蜂起が起きた。

  新羅の中央政府が農民蜂起を鎮圧できない中、地方では豪族が勢力を拡大した。彼らは自らを城主、将軍と称し、行政権と軍事権を掌握し、実質的な支配力を行使した。官職への昇進に制限があった6頭品勢力は、真骨がすべての権力を独占する骨品制の問題点を批判し、改革を主張した。その一部は地方の豪族勢力と連携して新しい社会を建設しようとした。

  このような中、甄萱が地方の豪族勢力と軍事力を基に完山州(全州)に都を定め、後百済を建てた(900)。弓裔は北原(原州)で活動していた梁吉の部下として活躍し、勢力を拡大して松岳(開城)に都を定め、後高句麗を建国した(901)。これにより新羅は後三国に分裂した。

 

* 張保皐(? - 846) : 唐から軍人として出世した張保皐は新羅に戻った後、清海鎮を中心に海賊を掃討し、唐と新羅、日本を繋ぐ東アジアの海上貿易権を掌握した。 有力な海上勢力に成長した張保皐は中央の王位争いに影響力を行使して暗殺された。

 

 

渤海の建国と発展

  高句麗が滅亡した後、唐は多くの高句麗の遺民を遼西地域に移住させた。しかし、高句麗の遺民は各地で唐に抵抗した。7世紀末、唐の統制力が弱まると、高句麗出身の大祚栄が高句麗遺民と靺鞨集団を率いて吉林省東牟山の近くに移動し、渤海を建国した(698)。高句麗を継承した渤海が建国され、南の新羅と北の渤海が共存する南北国となった。

  大祚栄(高王)の後を継いだ武王は、領土拡張により国家の基盤を固めた。唐と繋がっていた黒水靺鞨を制圧し、唐の山東地方を攻撃した。外交的に突厥、日本と親交を結び、唐と新羅を牽制した。文王は武王とは異なり、唐と親善関係を結び三省六部など唐の文物を受け入れ、新羅とも親善関係を結び交流した。

  渤海は9世紀前半、宣王の時に全盛期を迎えた。宣王は靺鞨族の大部分を服属させ領土を拡張し、高句麗の昔の令土の大部分を占めた。この頃、唐は渤海を指して「東の隆盛した国」という意味で海東城国と呼んだ。

  しかし渤海は10世紀初め、支配層が分裂する中で契丹の侵略により滅亡した(926)。滅亡後、多くの渤海の流民が高麗に亡命した。

 

 

渤海の統治体制

  渤海の中央政治組織は3省6部を基本とした。これは唐の制度を受け入れたものではあるが、運営と名称は独自であった。三省のうち政堂省が最高執行機構で、その長官である大內相が国政を総括した。政堂省は6部を二つに分けて管轄したが、6部の名称には儒教の理念が反映されている。

  地方行政区域は5京15府62州で整備された。戦略的な要衝地に5京を設置し、15府62州とその下の県に地方官を派遣し、地方行政の末端である村落は靺鞨の首領の助けを受けて治めた。首領は地方の行政を担当しただけでなく、中国や日本に外交使節として派遣され、交易を担当したこともあった。