鉄道の建設

  鉄道は、商品流通の促進、旅行文化の拡散、技術発展などに重要な役割を果たした。 しかし、西欧列強が東アジアに鉄道を敷設した理由は、彼らの軍事侵略と経済侵奪に役立つためだった。

  日本は明治維新以後、中央集権を強化し富国強兵を実現するため、直接鉄道建設に乗り出した。 1872年に日本で初めて東京-横浜間鉄道が開通した。 以後各地で鉄道会社ができて路線が拡大された。

  清では1876年に初めて鉄道が敷かれた。 当初は列強の軍事的·経済的侵略と風水的な問題などで反対が多かったが、鉄道敷設をめぐる賛否論争の末、1889年に鉄道敷設を基本政策として確定した。 そして、鉄道技術を学んでくるようアメリカに留学生を派遣し、鉄道技術者養成学校を建てた。 しかし、資本と技術不足などで困難を経験した。 結局、1901年の辛丑条約を機に、中国鉄道は大半が列強の手に渡った。

  大韓帝国の鉄道は日本の経済的·軍事的侵奪に利用された。 鉄道用地付近に住む住民は、自分の土地を鉄道用地として安値で収容され、随時労働力と食糧などを提供しなければならなかった。 そのため各地で日本の強制動員と過酷な行為に対する抵抗が頻繁に起きた。

 

近代的な時間観念の拡散

  伝統的な社会の人々は、日が昇ると田畑を耕し、日が暮れると家に帰って寝ながら自然な時間の流れに合わせて暮らしてきた。 しかし、開港後、大小の時計が西洋の文物とともに入ってくるようになり、東アジアの人々は時と分を細かく区分した近代的な時間に接するようになった。 日本は1873年、朝鮮は1896年、中国は1912年から太陽暦を導入して使用した。 そして、一日を24時間、一週間を7日とする全国共通の時間を作った。

  東アジアの人々が汽車を利用し、近代的時間に合わせて生活する傾向が次第に広がった。 列車の出発ㆍ到着時間を分単位で表示した列車の時刻表を見ながら時間を分、秒まで分けて認識するようになった。鉄道が人里に離れた村まで行き着くにつれ、鉄道周辺の村人は通過する汽車を時間をはかる手段にすることもあった。 国の標準時刻に沿って運行される鉄道の影響で鉄道周辺の地方住民まで時間観念を持つようになった。

  学校も決まった時間に従って学生たちが生活するように統制し、近代的な時間観念の拡散に影響を及ぼした。 生徒たちは時間に合わせて登校し、授業を受けた。 学校の規則や教科書に時間概念を強調する内容が含まれ、時間を守らない生徒には罰を与えた。

 

1881年に建てられた札幌農学校内の時計台 現存する日本の時計台の中で最も古いもので、歯車のような重要部品を一度も交換せず、今日まで正確な時間を知らせているという。

 

興味津々 東アジア : 40時間以内に満州と日本を旅行する

  1909年、「皇城新聞」には満州から釜山(プサン)を結ぶ新しい汽車の時刻表が掲載された。 当時、鉄道当局は釜山と日本の下関(しものせき)を定期的に往来していた関釜連絡船への乗り換えを考慮し、満州の安東線と韓国の京義線、京釜線を結ぶ列車の運行を予告した。 満州から汽車に乗って翌日の朝には釜山まで、関釜連絡船に乗って下関まで計40時間以内に日本に到着できるようになったのだ。 このように短い時間に、様々な交通手段を利用して長距離旅行をするには、出発と到着時間を正確に守らなければならなかった。 交通手段の発展は近代的な時間観念の形成に大きな影響を及ぼした。

 

近代都市の形成

  開港により国際貿易と金融が拡大し、近代都市が成長した。 開港都市には外国人の集団居住地が形成され、電信ㆍ電話ㆍ郵便ㆍ新聞ㆍ電車など近代的な通信ㆍ交通施設が建てられた。 しかし、外国人が居住する租界*が拡大する過程で、自国居住民が強制的に追い出されることも発生した。 また、仕事を探して農村から移住してきた彼らは、新聞物を享受することができず、都市の貧民層の生活に困窮していた。

  清では上海、天津などの開港都市が商取引と貿易の中心地として繁栄した。 開港都市には、西欧商品を扱う商店や外国の商館、金融機関が集中的に立ち並び、人口も急増した。 特に上海は知識人と言論人ㆍ出版人が大挙移住して活動し、経済ㆍ文化の中心地としても浮上した。

  日本は日米修好通商条約によって横浜など港を追加で開港した。開港都市は全国の商人が集まる貿易港として成長し、ここを通じて新聞、公園、食べ物など西欧文化が入ってきた。 一方、明治政府は1872年、首都である東京の銀座(ぎんざ)で大火災が起きると、銀座の道路を拡張し、レンガ建築で西洋式の街を作った。

  朝鮮では開港後、釜山(プサン)、仁川(インチョン)などの開港場に日本人居留地が形成された。 その後、各国と条約を締結し、漢城(ハンソン)に外国の公使館が建てられ、多くの外国人が居住するようになった。 大韓帝国政府が皇城作り事業を推進し、漢城も次第に近代都市の姿を整えた。

 

* 租界 開港場内に一定の範囲を区画し、外国人が自由に居住し治外法権を享受できるように設定した地域で、日本では居留地とも呼ばれた。

 

19世紀後半、西洋式レンガ造りの建物が建つ銀座の街並み 鉄道馬車や街灯、西洋式建物を見ることができる。 西洋の服装をした人もいる。

 

テーマ探求 : 東アジア開港場探訪

  上海、仁川、横浜はすべて19世紀に開港した都市である。 これら都市の開港後の姿と歴史をよく見て踏査計画書を作成してみよう。

  上海には開港以来、イギリス、アメリカ、フランスなど西洋諸国の租界が設けられた。 その後、アメリカとイギリスの租界が合併し、公共租界が成立し、上海は中国人居住地域と公共租界、フランス租界に分割された。 上海は一種の自治共和国で、居住外国人が独自に行政機関を設置して運営することができた。 上海の領域は拡張し続け、中国が西欧の侵略を受ける中でも中国最高の経済的繁栄を成し遂げた国際都市に成長した。

  仁川には日本が先に租界を設置した。 日本はその後、居留民が増えると、埋め立て事業を通じて租界を拡大したりもした。 そして清商人と日本商人が商圏をめぐって熾烈に競争した。 しかし、1910年に日本が大韓帝国を支配したのに続き、1914年には朝鮮内の租界を廃止し、仁川の租界も消滅した。 しかし、その後も仁川は日本人の主な活動拠点であり、商工業都市として成長した。

  横浜には開港後、長崎、神戸、大阪などと共に租界地が設定された。 横浜の租界は、各国が別途の租界地を作らず、一緒に集まって暮らす各国共通の居留地だった。 その後、サンフランシスコ-横浜-上海を結ぶ航路が開設され、東京と連結する鉄道が開通した。 その結果、横浜は西洋の文物が入る入口であり、日本最大の貿易港に成長した。