イギリスの侵略と清の開港

  19世紀中盤、清はイギリスから密輸出される阿片(アヘン)が急増し、様々な問題にぶつかった。 阿片中毒者が増えて社会問題になり、阿片の購入費用として銀が大量に流出し、国の財政も苦しくなった。 これを受け、清は林則徐(りん そくじょ)を広州に送り、阿片を没収し、阿片貿易取締を強化した。

  イギリスは清政府の阿片取締を口実に戦争を起こした(第1次阿片戦争、1840)。 近代兵器で武装したイギリス軍が南京に進撃すると、清はイギリスと南京条約を締結した(1842)。 南京条約は東アジアで締結された最初の近代的な条約だったが、広州をはじめとする5つの港の開港、香港割譲、公行の廃止、領事裁判権と最恵国待遇などを規定した不平等条約だった。

  公行が廃止されたにもかかわらず清の貿易量が期待したほど増えないと、イギリスはフランスと連合して第2次阿片戦争(アロー戦争)を起こした(1856)。 その結果、天津条約と北京条約が締結され、清は港を追加開港し、キリスト教の宣教を認め、西洋外交官の北京駐在を許容した。 一方、ロシアは北京条約を仲裁した見返りに沿海州を占めた。

 

アメリカの武力示威と日本の開港

  江戸幕府はオランダを除く西洋国家と通常しない鎖国政策を維持した。 しかし、阿片戦争で清が敗れたという知らせが伝わると、江戸幕府は西洋の船舶に必要な物資を提供する方向で鎖国政策を緩和する一方、西洋の侵略に備えて海岸防衛態勢を強化した。

  この頃、アメリカ(米国)は日本を太平洋航路の中間寄着地とするためにフェリー提督を派遣し、開港を要求した。 アメリカ艦隊の武力示威に屈服した幕府は日米和親条約を締結して2つの港を開港した(1854)。 その後、アメリカが引き続き通商を要求し続けると、日本は日米修好通商条約を締結して港を追加開港し、アメリカの領事裁判権を認めた(1858)。 日本がアメリカと結んだ条約も不平等条約だった。

 

ペリーの入港 ペリー提督が率いるアメリカ軍が日本の横浜(よこはま)に上陸する様子だ。

 

雲揚号事件と朝鮮の開港

  19世紀、朝鮮沿岸でも西洋の船舶が現れ、通商を要求した。 当時、政治的実権を握っていた興宣大院君(フンソン デウォングン)は、強力な通商修交拒否政策を展開した。 このためフランスとアメリカは朝鮮を侵略した。

  興宣大院君が退き、高宗(コジョン)が直接政治に乗り出すと、一部の官僚が西洋と交流しようという通商開化論を主張した。 このような状況で日本が雲揚号事件(うんようごう じけん)を起こし、朝鮮に開港を要求した。 結局、朝鮮は日本と江華島条約(カンファド条約、日朝修好条規)を締結して門戸を開放した(1876)。江華島条約は朝鮮が釜山を含めて3つの港を開港し、日本の海岸測量権、領事裁判権などを許容した不平等条約だった。

 

東アジア史百科 : サイゴン条約とベトナムの開港

  ベトナムは16世紀、ポルトガルをはじめとし、様々な西洋諸国との交易を行った。 19世紀半ば、グエン朝がキリスト教を大々的に弾圧する過程でフランス宣教師を処刑すると、これを口実にフランスがベトナムを侵略した。

  フランスは南部ベトナムの一部を占めた状態で第1次サイゴン条約を締結してベトナムを開港させた(1862)。 第1次サイゴン条約は、ベトナムがフランスに宣教の自由、コーチンチャイナ(インドシナ半島のベトナム南部地方)東部3省の割譲、ダナンなど3港の開港などを許可した不平等条約だった。

 

条約体制に基づく新しい国際秩序の成立

  西洋列強が武力を前面に押し出し、東アジア各国に不平等な条約締結を強要したことで、東アジアに新しい国際秩序が形成された。 日本は日清修好条規(1871)を締結し、開港後最も早く外交関係の調整に乗り出した。

 

  第8条 : 両国の開港場には彼此何れも理事官を差置き自国商民の取締をなす。

凡家財、產業、公事、訟訴に干係せし事件はすべて其裁判に歸し何れも自国の律例を按して糺辨す。 - 日清韓条約要覧

 

  上記の条項は、日清両国が全ての国に領事館を設置し、領事を派遣して領事裁判権を持つように規定している。 これは清と日本が対等な立場で日清修好条規を締結したことを意味する。 この条約の締結により、日本は中国中心の伝統的な東アジアの国際秩序から脱し、清と対等な地位を有するようになった。

  朝鮮でも伝統的な朝貢ㆍ冊封関係から脱し、清との関係を再確立しようとする動きが現れた。 清の干渉から脱し、独自に西洋列強と条約締結に乗り出し、朝露修好通商条約(朝鮮-ロシア修好通商条約)を締結した。

  清は東アジアにおいて伝統的な国際秩序を維持しようとしたが、現実は清の影響力の縮小により現れた。 日本が清と日本の間で二重的外交をしていた琉球を1870年代に自国に完全併合し、清は琉球に対する影響力を失った。 また、清はフランスとの戦争でも敗北し、ベトナムへの宗主権も諦めざるを得なかった。

  その結果、東アジアの国際秩序は朝貢ㆍ冊封関係に基づく中国中心の伝統的秩序が崩壊し、開港後、各国が締結した国際条約に基づいた近代的条約体制に変わった。

 

清仏戦争(1884-1885) フランスがベトナム·ハノイを占領しベトナムを保護国化すると、清が軍隊を派遣し戦争が起こった。

 

興味津々 東アジア : 独立王国琉球、沖縄県になる

  独立王国だった琉球は1609年以来、薩摩(さつま)藩の内政干渉を受けるようになった。 しかし、明ㆍ清との朝貢ㆍ冊封関係もそのまま維持され、琉球は中国と日本に隷属した「両属」関係に置かれていた。

  台湾原住民が琉球の漂流民を殺害した事件をきっかけに、日本は1874年台湾に侵攻した。 そして清との交渉で事実上、琉球が日本領土であることが認められた。 その後、琉球の租税ㆍ行政ㆍ刑法などが日本の統制下に置かれるようになり、琉球は次第に独立国の地位を失い、1879年には沖縄県が設置された。

 

琉球王国の首都、首里城(日本 沖縄)