三国、儒学を受け入れて歴史書を編纂する
三国時代に中国との交流が活発になり、留学が受け入れられた。三国は行政実務を担当する官僚を養成するために教育機関を設立し、留学を普及していった。高句麗は首都に太学を建て、儒教の経典と歴史書を教え、地方には扃堂を置いて漢学と武術を教えた。
百済には儒教の経典を教える五経博士*がいた。壬申誓記石から新羅でも青年たちが儒教の経典を学んだことが分かる。この時期の留学は人材養成や忠、孝、信などの規範を奨励する役割を果たした。
三国時代以前からすでに漢字が伝来して使用されており、三国は行政実務や外交文書を作成する際に漢字を使用した。広開土大王陵碑や真興王巡狩碑、百済が北魏に送った外交文書などから、三国の儒学と漢文学の水準が分かる。
三国は学問が発達し、中央集権体制が整備されたことで歴史書を編纂した。自国の成長と発展を記録した歴史書を編纂することで国内の安定を図り、王室の権威を高めようとした。
高句麗では早くから「留記」100冊を編纂したが、嬰陽王の時、李文真がこれをまとめて「新集」5冊を編纂した。百済は近肖古王の時博士高興が「書記」を編纂し*、新羅は真興王の時に居漆夫が「国史」を編纂した。現在、これらの歴史書は伝わっていないが、高麗時代に金富軾が書いた『三国史記』には当時の歴史書を編纂したという記録が残っている。
* 五経 : 儒教の五つの経典である「詩経」、「書経」、「易経」、「礼記」、「春秋」を指す。
* 注 : 「書記」を歴史書ではなく、文字/歴史記録する制度が始まったと解釈する学者もいます。 次は「三国史記」の該当句節です ; 百濟開國已來, 未有以文字記事, 至是得愽士髙興, 始有書記。
壬申誓記石(国立慶州博物館)
史料 : 壬申誓記石、儒学を学ぶことに盟書する
壬申年6月16日、2人が共に盟書し記録する。 天の前に盟書することを、今から3年後に忠道を守り、過失がないことを誓う。 もし盟書を破れば天から大きな罰を受けることを誓う。 もし国が不安で世の中が乱れても忠道を行うことを誓う。 別に辛未年7月22日に大きく盟書した。 すなわち「詩経」、「尚書」、「礼記」、「春秋左氏伝」を順に習得することを盟書するが、3年とした。
壬申年に新羅の2人の青年が国に忠誠を捧げ、3年以内に儒教の経典を熱心に学び、それを自ら実践することを誓った内容が書かれている。-壬申誓記石-
統一新羅の儒学と学問
統一を前後して新羅は儒教の政治理念を通じて王権の強化を後押ししようとした。神文王は教育機関として国学を設立し、学問を奨励した。元聖王の時は読書三品科を実施し、国学の学生を対象に儒教経典の理解水準を試験し、管理選抜に活用しようとした。
儒学の奨励により統一新羅からは優れた文章家が輩出された。金大問は「花郎世紀」、「高僧伝」などを建てて新羅の伝統と文化を主体的に認識し、強首は外交文書を上手に作ったことで有名だった。薛聡は経典に造詣が深く、吏読*を整理した。
統一後、新羅から唐に多くの留学生が渡り、賓貢科*に及第するケースも多かった。特に崔致遠は、賓貢科に合格した後、黄巣の乱が起きると、黄巣を討伐しようという檄文を書き、唐で文章家として名を鳴りた。
* 吏読 : 漢字の音と訓を借りて韓国語を書いた表記法である。
* 賓貢科 : 中国歴代王朝で外国人を対象に実施した過去の試験で、唐の時に初めて開設された。
渤海の儒学と人文学
渤海でも留学が発達した。これは忠、仁、義、智、礼、信という儒教の徳目を中央の6部の名称で使用した点からも分かる。また、中央教育機関として冑子監を設置し、儒教の経典を教え、唐に渡った留学生が新羅の留学生と賓貢科で競争したりもした。貞惠公主と貞孝公主の墓地には、様々な儒教経典の内容が引用されていることから、儒学が広く普及したことが分かる。
洗練された文章で作成された貞孝公主の墓地や咸和4年銘碑像の文章、日本に使節団として派遣された楊泰師の詩などを通じて漢文学の水準も優れていたことが分かる。
貞孝公主墓誌石(中国吉林省和竜頭山出土) : 儒教の経典である「詩経」と「論語」の一節が引用されている。
歴史を作った人物 : 6頭品出身の渡唐留学生、変化を夢見る
統一新羅時代、多くの学生が儒学をより深く勉強するために唐に渡った。彼らをよく「渡唐留学生」と言う。下代になると次第に6頭品以下の出身が主流となった。6頭品は、渡唐留学を骨品制を基盤とした社会的制約から脱することができる一つの脱出口と考えたものとみられる。
代表的な6頭品出身の渡唐留学生としては「3崔」と呼ばれる崔致遠、崔承祐、崔彦衛がいる。彼らは帰国後、新羅社会の矛盾を批判して改革を追求したが、実現は困難だった。このような現実の中、崔致遠は伽耶山に隠居して著述に没頭し、崔承祐と崔彦衛はそれぞれ後百済と高麗の臣下となって新しい世界を作ろうとした。
崔致遠(857~?) : 18歳で唐の賓貢科に及第し、新羅帰国後、真聖女王に時務策10余条の改革案を提出した。


