三国、仏教を受容する
  三国は中央集権的領域国家に発展する過程で仏教を受け入れ思想を統一しようとした。高句麗は小獣林王の時に前秦から、百済は枕流王の時に東晋から仏教を受け入れた。新羅は高句麗を通じて仏教が伝わったが、貴族たちの反発で葛藤を経験し、法興王の時、異次頓の殉教をきっかけに仏教を公認した。
  仏教は王権強化を理念的に支えた。特に新羅では多くの王が仏教式の王名を命じて、「王がすなわち仏」という王即仏思想を掲げ、王室の権威を高めようとした。
  三国は王室の主で国家の安寧と発展を祈る護国的性格の大規模な仏教寺院を建立し、各種仏教行事を開いた。高句麗は平壌に遷都する前に平壌に9つの寺院を創建し、百済は弥勒寺をはじめとするいくつかの寺院を建立した。新羅の真興王は皇龍寺などを建て、国家的仏教儀式を行った。
  王室が率先して受け入れた仏教は貴族社会に拡大した。貴族も業説*を受け入れて貴族中心の身分秩序を正当化した。
  仏教とともに中国と西域から音楽、美術、工芸、建築など多様な文化が伝来し、古代文化が一層豊かになった。

 

* 業説 : 前世に建てられた行為の結果を現世で受けるという主張で、王や貴族は前世にまじめな功徳を多く貯めて現世に貴重に生まれたと解釈されたりした。

 

慶州 皇龍寺(キョンジュ ファンニョンサ)跡地(慶北 慶州) 皇龍寺は、真興王の時、国家的な査察で建てられており、皇龍寺9階木塔は善徳女王の時に完成された。 皇龍寺9階木塔は新羅の周りの9つの国を服属するという護国精神が込められた塔だ。 しかし、高麗時代にモンゴルの侵略で燃えてしまって、今は跡だけが残っている。

 

統一新羅、仏教に対する理解を深める
  統一後、新羅の仏教は唐との交流が活発になり、教理に対する理解が深まり、学問的に哲学的な性向が強くなった。また貴族だけでなく民間にまで拡大したが、ここには元暁や義湘のような僧侶の活躍が大きかった。
  元暁は仏教理論を幅広く理解し、これを整理してすべてが一心から生まれるという一心思想を提示した。これに基づき、他の宗派との思想的対立を緩和するため、和諍思想を主張した。また極楽に行こうとする阿弥陀信仰*を直接伝道して仏教大衆化の道を開いた。
  義湘は唐で仏教を学び帰ってきて、すべての存在は相互依存的関係にありながら調和を成しているという華厳思想を確立した。これは三国統一に伴う様々な葛藤を治癒するのに貢献した。また、彼は病気や災害など、現世の苦難から逃れようとする人々に観音信仰*を示し、希望を与えた。
  一方、この時期に多くの僧侶が唐に留学して新しい仏教を学び、インドにまで行って仏教を勉強してくる僧侶もいた。慧超はインドと中央アジアを巡礼し、「往五天竺国伝」という旅行記を残した。
  仏教が発達し、仏教文化も隆盛した。仏国寺と石窟庵はこの時期の仏教芸術を代表する建築物で、優れた建築技術と芸術性を示している。

 

* 阿弥陀信仰 : 阿弥陀如来坐像は西方浄土(極楽世界)にある省庁だ。 阿弥陀信仰は来世に西方浄土に往生することを塗らは信仰だ。 元暁は誰もが勤勉に「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に帰依します)」を覚えれば、来世には西方の浄土に生まれると説法した。

* 観音信仰 : 観音信仰は観世音菩薩を一心に念仏すると、現世の苦難から脱することができると信じる信仰だ。 観世音菩薩は、自費で衆生の苦しみを救済し、往生の道に導く菩薩で、観音菩薩とも言う。

 

慶州 仏国寺(慶北 慶州) 仏国寺は、仏陀が治める国という仏国土を形象化したものであり、複数の殿閣を立てて多様な如来を奉って釈迦牟尼と多宝如来を象徴する釈迦塔と多宝塔を作った。 1995年ユネスコ世界文化遺産に登録された。

 

新羅末期、禅宗が流行する
  禅宗は教理と戒律を重視する教宗とは異なり、参禅修行を通じて悟りを得ようとする仏教である。統一の頃に伝来したが、華厳宗など教宗の威勢に押されて頭角を現せなかったが、新羅末期に広く広まった。
  禅宗の僧侶たちは地方各地に寺院を建て、九山禅門を形成した。禅宗は実践的性向が強かったが、当時地方各地で成長していた豪族の性向と一致し、豪族勢力の後援を受けたりもした。禅宗の僧侶たちは6頭品出身の儒学者たちとともに新しい時代を切り開く思想的基盤を築いた。また禅宗は地方文化の発達にも影響を及ぼした。

 

和順(ファスン) 双峯寺(サンボンサ) 澈鑒禅師塔 (チョルガムソンサタプ) (全南 和順) 新羅末、禅宗の影響で僧侶の舎利を奉安する僧塔が流行した。

 

渤海の仏教
  渤海の仏教は高句麗仏教を継承し、王室と貴族を中心に広く盛んに行われた。文王は「金輪」、「聖法」という仏教式名称を使うなど理想的な王を目指して各地に多くの寺院を建てた。貴族の間にも仏教が広がり、9世紀以降は渤海の多くの僧侶が日本や唐で活動した。
  渤海の都城を中心に寺院跡と仏像が発掘されたが、寺院建築に使われた瓦当や仏像などには高句麗様式が反映されている。代表的な渤海の遺物としては、上京城内の興隆寺の渤海の石灯籠や二仏竝坐像などがある。

 

二仏竝坐像(中国吉林省琿春出土) 二の仏陀が並んで座った姿で、高句麗仏像の伝統を継承したものとみられる。

 

渤海石灯(中国黒龍江省寧安) 渤海石灯は、上京城跡の興隆寺(渤海石仏士)に残っているものと、高さが6.3mに達する。

 

道教と風水地理説の流行
  道教は中国で発達した宗教で、道家思想を基に神仙思想と民間信仰などが結合して成立した。不老長生と現世の求福を追求する道教は、三国に伝来し貴族社会を中心に流行し、芸術に多くの影響を及ぼした。
  高句麗古墳の壁画には神仙の世界が描写されており、東西南北を守る道教の防衛神を描いた四神図がある。高句麗の淵蓋蘇文は唐に道士の派遣を要請するなど道教を積極的に奨励し、貴族勢力の後援を受けていた仏教を弾圧したこともあった。
  百済の山水文塼と金銅大香炉は、自然の中で暮らしたいという気持ちや神仙たちが生きる理想世界をよく表現している。
  新羅末期には山勢や地形的要因が人間の吉凶画服に影響するという風水地理説が流行した。風水地理説は、首都·金城(慶州)を中心とした地理認識から脱皮し、自分の住む地域の重要性を悟らせた。当時、地方で成長した豪族は風水地理説を利用し、金城の地の気運が尽きたと主張し、勢力を拡大させた。

 

江西古墳の四神図のうち玄武図(平南 江西) 四神は道教で四方を守護する想像の動物で、青竜(東)、白虎(西)、朱雀(南)、玄武(北)を指す。

 

山水文塼(忠南 扶餘 出土) 上段には雲が浮かんでいる空を、中央には山岳を、下段には水面を表現した。

 

百済金銅大香盧(忠南 扶餘 出土)