いつものことだが、結論を先に述べよう。

話にならない
会話が成立しない
逆切れする
そればかりか、全ての責任を親と家族に押し付けて
<躾>が為っていないとばかりに集中砲火を浴びせかけてくる。
過去の経緯等を懇々と説明しても、全く聞く耳をもたない。
しかも『特別支援教育コーディテーター』の肩書を持つ管理職二人が雁首を揃えてのことである。これには、文字通り言葉を失わざるを得ない。

一体何の為の特別支援教育コーディネーターなのか、解らない!
おそらく、「学校運営に必要だから」とか、「おカミに言われて嫌々渋々」程度で保有している肩書なのであろう。

何の実践もなく、行動スキルも支援に即したものになっていないし、ほんの僅かの躊躇いもなく平然と他人を傷つける。
素人目から見ても『ど素人』と言わざるを得ないような発言や、奇妙な論理展開を平気でやってのける。それならまだしも、事実確認が出来ない(問い詰めると「過去の事なので」と言葉を濁すような)事象を引合いにだし、さらに業火を浴びせる。
これが本当に教育者と呼ばれるものの取るべき態度だろうか。甚だ疑問である。

私などが特別支援教育云々を語るなど烏滸がましいのだが、そもそも特別支援とは?教育とは?ということの根幹に関る疑問を抱かざるを得ない。

『誰のための教育であるのか』
誰でもわかるこの問いに、明確に『子どもの為の…』と胸を張り、相手の目を見据えて答えられる教師がどれだけいるのだろうか?

『言葉の上』では、おそらく100人中100人がそう答えるだろう。
しかしその実体は『教師・教職員のための』学校であり、教育現場である。と言うほかに適切な言葉を紡ぐことが私には出来ない。

こんな腐った似非軍隊にいるのは、『教師』という名の陳腐な鎧を着込み、エゴの盾と欺瞞の剣で重武装した『腐敗兵』どもである。そんな場所に否応なく通わねばならない子供たちが不憫でならない。

組織が腐り人間が腐った時空には、腐臭しか漂わない。
芳しき香りを放つ優しい花が一輪あったとしても、瞬く間にその根は腐り茎は萎れ花を落としてしまうだろう。
実際その姿を目の当たりにしたときは、思わずその優しき花を抱きしめてしまいそうになる。


それにしても、子供たちの持てる力には目を見張るものがある。
こんなにも腐臭漂う空間にあって、己の身を守る盾をきっちりと掲げることができるだけの生命力。
そして、誰が知恵を授けたわけでもないのに『腐敗兵』を見抜く洞察力。心から感服している次第である。

儂にすべてを託せ!などと格好良く言ってやりたいのだが、残念ながら私ではいささか力不足である。

彼らの心に咲く美しい花を枯らしてはならない。
その花と芳香を守るためにも、子供たちを真の路へと導かなければならない。
将来を担うべき若人たちの心を腐らせては、日本国に未来はない。


ガンバレこどもたち!!!!!!!!!!!!!!!!!!




心ある戦士よ立て!

其方達の心を枯らしてはならぬ!

我こそは其方等を導くものなり!!

正しき道へと誘うものなり!!!

いざ剣を帯びよ!その剣は命の剣!!

帷子を纏いて盾を持て!!

腐りきった世に命の剣を突き立てよ!!!

『我等、此処に在り!』と声を張れ!!

長きにわたる不毛なる戦に終止符を打とうではないか!!!!!!!!!





詩的な表現になってしまったが、衷心よりの叫びと受け取って頂きたい。
学校という組織は依然として閉鎖的かつ封建的であると再認識させられた。
(教育委員会が糞なら学校も糞であるということ)
そればかりか、極端にローカライズされ凝り固まった思考パターンは、永久凍土のごとく凍てつき、鶴嘴はおろか発破さえ通らないほど堅固な要塞と化している。もっとグローバルな視点に立てないものか……。

学習に難を抱えるこどもの扱いについて、指導のファクターをとにかく細分化して半時間ほど懇々と説明(詳細は後述)したにもかかわらず『言わんとすることは解ります。でもね…』と、必ずbutがはいるのだ。
何故家庭でも出来ることなのに、学校といういわば“スペシャリスト”集団がそれを実行できないのか。誰も100%など求めていないのに、糞教師どもの筆頭は自分たちの力不足を自慢げに解説し始める始末。恥ずかしいとは思わんのか!!!お前はそれでも教師なのか?

昨晩にも書いたが、現在様々な要因が重なり、息子は半ば不登校状態に陥っている。
事実を突き付けて現状をどう思うかと問うても、『状況把握が出来ない以上対処のしようがない。兎に角学校に来るよう促してくれ』と、これまた逆鱗を剥がさんばかりのコメント。
これ以上平行線の議論を続けるのは愚の骨頂だが、ここで引かなかったという事実を称賛してほしい。

しかしながら、甚だ呆れて思わず口をあんぐりしてしまったのは言うまでもない。

「話にならない」とはこの事であると改めて確認する羽目になった。(笑)
まさに『馬鹿の壁』である。(爆)

幾ら懇切丁寧に説明しても、上の空でこそないものの、真っ向から否定して掛かる姿勢は、およそ教育者の取るべき態度とは思えない。
遂に私も我慢の限界を迎え「そんな無理解な組織に、安心して子供を預けることなどできない」と言ってやったのだが、ここもまたテンプレート通りの反応『兎にも角にも学校に来るように促して…』の繰り返し。
何より腹立たしかったのは、時限の全く異なる話をしているのに、全て同一問題として片付けようと話を纏めんとしていることだった。

昨晩のリフレインになるが、「雨に濡れて風邪をひいたら貴方(通学バスの糞運転士)が責任をとれるのか?」と私が子供に言わせたことにことさら言及し、「大人に対してそういう言葉遣いを教えるのは、社会規範にてらしてもおかしい(つまり『問題がある』と言いたいらしい)。そんな物言いをするようでは、これから大きくなっていく中で彼(息子)が困ることになる。」全く以てこれまでの経緯を理解していない。
そこで私は「前にも言ったが、自分自身の身の安全を確保せんと発する言葉に無礼も糞もない! 立場や年齢の上下に関係なく言わなければならないことは言うように教育する」と吐き捨ててやった。そしてここから、その言葉の裏に隠れた真意について少し語ってやったのだが、これにも全く理解を示さない。
文字通りの無理解そのものである。これ以上一席ぶっても仕方がない事を悟った私はこの件を一旦ここで終話とすることにした。

話題は、興奮状態にあるときに吐く暴言等とその対処にシフトした。
暴言と言っても『馬鹿』『阿呆』『糞野郎』程度のもの。少々興奮状態であれば誰しも一度ならず口をついて出た経験があるだろう言葉である。
その対応に関して、とにかく“指導”をしたがる莫迦どもの言はこうだ。
「汚い言葉を吐いた際は、当然その都度“指導”を行う。手順は、先ず発言を止めさせて、その言葉が何故悪いのか、どうして言ってはいけないのかを諭す」というものだそうだ。普通に考えて、あまりに端折りすぎていると思うのは私だけだろうか?

確かに、一般的にこれで理解できると思うのも無理はない。そのことには一定の理解を示そうではないか。しかし、いざ激昂状態にあるときにその発言を遮られ、かつ上から目線の“指導”を受ければ、子供は怒りを鎮める時間も与えられぬままガツンと度突かれたような衝撃で、心底混乱してしまうだろう。
このようなやり方では、子どもは混乱の渦中に置き去りにされ、更に混沌とした状態を招くであろうことは想像に難くない。

そこで、指導のファクターを数段階に分けて“傾聴”の意味とやり方も合わせて説明した。

「興奮状態にある子に対して、即座に言葉を遮るなど混乱を誘発するだけだ。
おまけに、怒りの感情が渦巻いている中で注意や指導をうけたらな
おさらその混迷度は増すばかりだから、もう少しじっくりそれぞれの情報を
処理する時間を与えられないものか?

特に多文書多重処理が苦手な子に対しては、まずそれぞれの段階にきっちりと線を引き、
1.子どもの発言を遮ることなく聞き取り(Listenig) 
2.落ち着かせ(Cool down) 
3.発言の内容を確認させ(Confirmation) 
4.何故それがいけないのかをゆっくりと説く(Description)
 
という“作業”は出来ないものか。


この4段階それぞれにしっかり時間を費やしてこその指導ではないか。それこそが傾聴的指導なのだ」と、文字通り噛んで含めるように解説してやったのだが、やはり「そんな手間なことはできない」的な回答しか得られなかった。


これほど子どもの人権を蔑ろにする場所が本当に“学校”を名乗って良いのか判らなくなってくる。

基本的人権の尊重は我が国の憲法にも謳われており、それは年齢を問わず担保されるべきものであるという認識はきっと彼らの中に存在しない。あくまで「子どもは子どもとして、大人のいう事に逆らうべきではない」的な立場なのであろう(前述の『言葉遣い』の件で明白)。

これでは、子どもは萎縮して自らの考えを述べることなどできなくなってしまうし、それを増長するような教育体制では、「自分で考えることをやめた“虫”」を育てることに他ならない。
こんな偏った教育が行われている“学校現場”が目の前にあるという信じられないような事実に恐怖すら覚えると同時に、これらのことが未来に与える影響が“真に計るべからざるに至る”ものであるという認識を持つ必要を痛感している。

学校は円滑な人生を過ごすための教育を行う場であり、ニート養成所ではない。
不登校に起因する引きこもりやニートの状態に追いやられる若人の数は毎年うなぎのぼり。
その素地が小学校時代から築かれているという現実に我々若い親世代はもっと目を向けねばならない。




機は熟したり!
今こそ立つとき!!

さあ、共に手を取り闘おう!
この腐りきった世界を、そして世界によって腐りつつある子供たちを我々の手で救おうではないか!!!!

現在、我が子二人は地元教育委が進める校区弾力化制度を利用して、校区の2つ離れた小学校に通っている。学校周辺の環境は非常にカントリーチックで、のどかな場所だ。相談に訪れた時点では、校長先生はじめ教諭方用務員さんに至るまで、のどかな学校周辺の雰囲気をそのまま体現したような方たちばかりだったので、安心して預けることにした。
そもそも何故時間をかけてまでそんな遠くの学校に通わせているのかというと、長男が少々ほかの子と違った特性を持っており、在住区校のような中規模以上の学校では対応が難しいだろうと考え、よりきめ細かな対応が期待できる小規模校でお世話になることにしたからだ。
そんな長男も、もう間もなく小学校生活最後の年を迎える。

この間、何度か校長人事も入れ替わり、現時点で彼らが入学してから3人目の校長が着任している。そして、現在の校長が赴任してから、学校の空気は限りなく灰色になってしまった。
それまでの雰囲気(空気)を表するならば“桜色”である。
 
現在その長男は学校を休みがちとなっている。きっかけはただの風邪だったのだが、どうやら積年の心労に起因する体調不良(心的外傷後ストレス症候群/トラウマ)がおもな原因らしい。休みがちとは言っても、その日数は浅く合計で10日ほど。しかも間で一日だけ登校したため、まだ“不登校”の定義にはあてはまらない。しかし、その第一歩を踏み出してしまったのは紛れもない事実だ。
さて、その原因を紐解いてみよう。

元より学校までの距離が10余kmもあり、毎日自力で送迎をすることは物理的に不可能だったのだが、そこはそれ、時の校長先生のご尽力により、通学バスを設えていただきその車両を利用できることになっていた。当初の運転士さんもとても優しく、穏やかかつ冷静で、子供たちの心にしっかり寄り添うことのできる方で、きっちり“叱る”スキルも持った素晴らしい人物だった。

特に大きなトラブルもなく3年が過ぎ去った。

しかし、4年目に入り通学バスの運転士が交代してから状況は急変する。(現校長が赴任したのも丁度この時期。偶然か、或いは陰謀か。。。。)
この運転士、事あるごとに子どもを怒(おこ)り・怒鳴り(恫喝)・脅(脅迫)して組み伏せようとさえする。最悪なのは我が息子が手をあげられたことだ。
暴力の定義に依れば、“怒鳴る(恫喝)”の時点で暴力沙汰であると騒ぎ立てても良かったのだが、そもそも欺瞞に満ちた当局相手のこと。その程度では言う事を聞かないという事など火を見るより明らかだったため、子どもたちには「色んなタイプの人がいるから、ある程度は我慢するように」といった内容を伝え、なだめたり諭したりを繰り返しながら過ごさせていた。
そうこうしていると、ある日下校のバスから降りたった二男がわなわなと肩を震わせ、今にも噴火しそうなほど真っ赤な顔で「脅された」と訴えてきた。
私はおどろき、事情を聴いた。
多少の私語があったとか、友達同士でバスの利用態度等に関して注意しあっていたりしたところ、「やかましい!だまれ!」などと怒鳴られたため、事情を説明したという。ところが、それを“口答え”と受け取った糞運転士は「おまえが自分の子だったら殴っているぞ!」などと一瞬耳を疑うような言葉を投げつけてきたそうだ。
おまけに「殴ってやろうか!?」的なことまで言われたというのだから、その男の神経は心底疑わざるを得ない。
私は親として「もしそんなことがあったらとにかく騒げ。俺が何とかしてやる」と子供に伝え、教育委にも報告した。
それからしばらくして、本当に殴りやがった糞運転士!
子どもの怒りも、私の怒りも頂点を通り越し、完全にオーバーブーストしていた。

教育委のテンプレート対応とともに、折衝の場を持つことになった。
尤も、こちらにとっては陳情・要請・具申といった内容での参戦(笑)なのだが。
折衝の席で運転士の陳述を聞いたが、到底納得のいくものではなかったし、教育委側の見解も、運転士の擁護と弁明に終始するという全くもってふざけたものでしかなかった。
席上での糞運転士はというと、終始うつむき不気味なほど神妙な顔つきで座っていた。最後におもむろに立ち上がると「申し訳ございませんでした。以後二度とこんなことは致しません」といったこれまたテンプレート対応の常套句を口にした。
この席で最後に得た当局者の言は「この次何か(トラブルが)あったら運転士の交代も視野に入れてますので、今回は様子を見て下さい」というものだったので、一定の安堵と理解を示し、折衝を終えた。(勿論この時点で、この糞運転士を降ろせ!と要求したのは言うまでもない。)
それからしばらくは大きな衝突はなかったと記憶している。確かに『一定の効果』はあったようだ。

余談だが『一定の〇〇』という表現は実に便利である。


話題を戻そう
時が経ち、一旦は和解したかに見えた当局(主に糞運転士)との関係がどこかぎくしゃくし始めた。
いちいち目くじらを立てて問題視する必要などないような事細かな内容まで学校に“報告”され、そのたび理不尽な扱いを受ける子ども(主に長男)。

「運転が荒く恐ろしい思いをさせられている」と訴えた際は、さすがに当局も反応したが、その効果もあくまで『一定』の範疇を出るものではなかった。

親として一番憤りを覚えるのは、子供たちが学校に何か訴えても教師がまともに取り合わず「あのひと(糞運転士)は良い人だ、俺たち(漠迦教師ども)は彼(糞運転士)を信じる。」などと宣うこと。これは、「お前たちのいう事など取るに足りないのだから、我々は大人の言を信ずる」と同義であり子供の人権など、端から無いものとして扱っているとしか見えない。同時に、これは“言葉の暴力”そのものである。
これでは、子供たちが萎縮するどころか、心因性の病に罹るように仕向けていると言われても仕方ないのではなかろうか。教師どももやはり糞集団だということか?(勿論筆頭は現校長である)

もともと学校という組織が、何時までも旧態依然の閉鎖的かつ独善的、そして封建的かつ高圧的な事なかれ主義集団であることは承知している。というより否応なく見せつけられてきた。だがそれは、既に四半世紀も前の事であるので、現在は少しくらい柔軟な対応をしてくれるものと信じていたのだが、どうやら甘かったようだ。

極めつけは、つい20日ほど前に発生した“事件”だ。
その日は朝から雨が降っていたうえ、風も強くとても寒かった。
バス停に指定されている場所は某コンビニの敷地内なのだが、普段立っている場所は屋根もなく傘を差したところで壁際で暴れる風と前を通る自動車の走行風も手伝って、四方からしぶきが飛んでくるというかなり厳しい条件を有している。
そこで、彼ら(子どもたち)の身体を気遣う親に当然の言として「屋根のある場所で待てば良い」と伝えたところ、彼らからまたびっくりするような反応が返ってきた。内容はこうだ。
「勝手に場所を動いたら、また“おこられる”。だから寒いけど我慢する」
怒る理由が理解できない私は
「そんな言い種放っておけば良い。もし何か言われたら“俺の入れ知恵”だと前置きしたうえで『もし僕たちが風邪をひいたら貴方(糞運転士)が責任をとってくれるのか?』とでも言えば万事OKだよ」と言って、自分の車を転回させていたところに丁度通学バスがやってきたので、移動中だった彼らを呼び止め、「バスが到着したから早く乗るのが賢明」と伝えてその場を離れた。

親としては、当然の主張をするように子供に教えただけである。

そして、子供たちはそれをそのまま伝えた過ぎない。にもかかわらず、やはり糞当局(この場合は学校現場と教師)は目くじらを立て、子供たちを責め立てた。
これは実に軽薄で下らない“大人のプライド”が招いた事態だ。
「目上の者(大人)に対する言葉遣いがなっていない」とか「きちんと決まった通りにしなければならんだろう」など(そもそも“待機場所”が厳密に定められているわけではない)、ここでもやはり“テンプレート指導”が行われたようだが、私に言わせればそんなものは指導と呼べるものでは到底ないし、そんな指導が入ること自体に怒りを禁じえない。
息子には『これは俺の入れ知恵なんだからお前には全く責任がない。俺に言えと言われた通りに言っただけだと伝えるように』と念を押していたのだが、下校するなり上擦った声で訴える息子の言から、「聴いてもらえなかった」との証言がとれたので、「あぁ、やっぱりか」と思いつつも翌朝学校まで出向き、校長との折衝に臨んだ。
その場でもやはり、「言葉遣い」に言及するのは、下らぬプライドと権力を振りかざす漠迦な大人のテンプレートだった。「そういう言い方を子どもに教えるのは問題がある。大人に対する物言いではない。」と、さも“当り前の指導をした”といわんばかりの態度でふんぞり返っていたのは、言うまでもなく先述の漠迦校長閣下そのひとである。
私も負けじと(勝ち負けの問題ではないのだがw)
親が子供に己の身を守ることを教えて何が悪いのか?
 自分の身を守るための発言に、大人だ子どもだなどという問題で言葉を選ぶ必要があるのか? 
正統な権利を主張させたに過ぎない

と一歩も譲らなかった。当然協議は平行線である。ww

教育において、子供が自身の持つ権利を把握し・理解し・適切な保護をうけるためのスキルを教え込むのは、親の責務であると私は考える。その際の言葉遣いなど、それこそ取るに足りない“言葉尻”に過ぎない。ならば、“司法用語”でも持ち出せば納得するというのか?

子どもの権利を擁護し、環境を整備してやるのは親の責務であるという持論はこれからも堅持するだろう。


義務教育の義務を負う一番大きな存在は国(文科省)であり、その下には各都道府県の教育委員会、さらに細分化して市区町村の各教委、末端の学校組織がある。
つまり、義務教育とは「国民すべてに等しく教育の機会(サービス)を提供する義務を有する“国”(または地方公共団体に属する教育委員会及び学校組織)【店】」と「教育サービスを等しく享受する権利を有する“国民”(就学年齢に達した児童)【客】」という両者の立場が明確になって初めて成立するものであり、親はその調整やら環境の監視・監督やらを担い、子供の権利を守る義務を負うものであるという見解は、決して崩してはならないものだと常々思っているのである。



三者の関係(理想形)を解りやすく図式化してみようと思ったのだが、生憎時間が足りないので、今日はこの辺にしておこう。