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平成6年(1994年)4月に『猿岩石』 結成
第34回 ゴールデン・アロー賞 話題賞
平成9年(1997年) 日本レコード大賞 優秀新人賞
   〃       全日本有線放送大賞 新人賞
   〃        日本有線放送大賞 新人賞
平成16年3月 猿岩石解散

有吉 弘行(ありよし ひろいき、1974年5月31日 - )
広島県安芸郡熊野町出身。太田プロダクション所属。
身長172.3cm、体重67.0kg、広島県立熊野高等学校
卒業。実家は熊野筆の軸の部分を製造する工場を
経営している。
名前の読みは「ひろき」ではない
父親が役所に名前を提出する際に、酒に酔っていたため
「ひろいき」と間違えて申請したためである。
そのため、父親は「ひろゆき」と呼んでいると
有吉は語っている。
イメージ 3                                                           猿岩石時代のスター街道から一転、
月収ゼロまでの地獄をみた有吉であったが
『2011年テレビ番組出演本数ランキング』において、出演総本数499本で1位
今や毒舌キャラで押しも押されぬ
ピン芸人となった。
 
有吉の芸の一つにあだ名の命名がある。
この芸が2008年以降の有吉の再ブレイクの
要因の一つになった。
そして毒舌トークシラー
モノマネも結構イケてるにひひ
渡哲也
倖田來未 
哀川 翔  


そんな今の有吉であるが、
猿岩石時代の曲を今聴いてもわるくない、
なかなかのモンである。
当時のアイドル気取りが、大きな勘違い
だったと今にしてみれば思うが、 
シングル10枚、アルバムも4枚リリース
しているのはスゴイ。
当時のギャラは給料制であったが、
印税などの収入があったため、
月収が最高2,000万円だった。
 
前置きが随分長くなりましたが、10曲の
シングルの中から3曲をお届けします。
 
 
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 白い雲のように
1996年12月21日リリース
作詞:藤井フミヤ 作曲:藤井尚之      

日本テレビ進め!電波少年』での
ユーラシア大陸横断ヒッチハイク企画終了後、所属事務所関係者や『電波少年』のプロデューサーであった土屋敏男により、二人の歌が『思ったより上手い』という意向を理由として、なし崩し的に歌手デビューが決定した。
リリース当初はあまり注目されず、週間チャート初登場23位、約2万枚の売り上げだった。
しかし当人らの知名度が浸透し、4週目で初の
トップ10入りとなる4位に急上昇。
その後も何週にもわたりランクインし続け、
お笑い芸人がリリースしたCDとしては
異例のロングヒットとなった。
オリコン集計でミリオンセラーを達成している。

当初日本テレビでは系列会社のVAPから発売する意向であったが、猿岩石の所属事務所・太田プロダクションがコロムビアを選択。
この行為に日テレ側が激怒し、結果として番組で太田プロの所属者は起用されなくなり、
同社所属の松村邦洋も降板することになった。
 
 
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 コンビニ』 1997年5月8日リリース
   作詞:高井良斉 作曲:兼元一也             
猿岩石の3枚目のシングル
ファミリーマートCMソング。
この曲のPVには、女優・石井苗子が
出演している。
 
近くのコンビニで 真夜中過ぎに出逢った 
洗い髪の君に 僕は恋したのさ
名前さえ知らない 一目惚れなどしちゃって 
あの日から 僕は Everyday通ってるよ
雑誌 立ち読みしながら 来るのを待ったけど 
今夜も1人 肉まんを 食べながら 帰るよ
そういう恋もいいって なぜか 思うのさ
愛しい気持ちが 君に届かなくたって
 
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 My Revolution
1999年1月1日リリース
作詞:川村真澄 作曲:小室哲哉       


猿岩石の10枚目のシングル
実質的に猿岩石の最後のシングルとなった。
渡辺美里のヒット曲をカバー
花王愛の劇場ひなたぼっこ」主題歌。
 
『進め!電波少年』ヒッチハイク時代
1996年4月、テレビ番組『進め!電波少年
企画で「だまされて」香港に連れてこられた。
それに先立ち、内容を明かされないまま行われたオーディションには、バナナマン劇団ひとりらを含む多くの芸人が参加しており、最終選考にはTIMも残っていた。
香港で告げられたのはイギリスまでヒッチハイクで行け」だった。
そこから、旅が始まった。

猿岩石は「最初は、『いつでもリタイアできる、所詮はTV企画』という甘えがあった」と
語っている。
最初の頃は知名度の無さから低迷していたが
インドを過ぎた頃から人気が出始めた。
この企画で『電波少年』の人気は持ち直し、
2003年まで続く事になった。
2人は1996年10月に無事ロンドンに
ゴールした。
 
爆風スランプのボーカル、サンプラザ中野
歌った応援歌
旅人よ 〜The Longest Journey」も
発売され、これが評判になった。
 
では今回のラストソングになります。
 
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 『旅人よ 〜The Longest Journey
1996年9月21日リリース
作詞:サンプラザ中野
作曲:パッパラー河合

 

爆風スランプの29枚目のシングル。
日本テレビバラエティ番組
進め!電波少年内の企画、
猿岩石ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」
応援歌として、制作された。
 
爆風スランプ イメージ 8

旅人よ ~The Longest Journey
作詞:サンプラザ中野
作曲:パッパラー河合

何だかほんとに安心したよ 
無茶して心を傷つけただろう
何だかほんとに安心したよ 
おまえの笑顔に今会えたから
やるせない夜は街路樹を   
アンテナにしてあの人に
SOSでも打ちまくれ 
計算できない悲しみの

強い風に今立ち向かってゆく 
遥か彼方を目指した旅人よ
いつか再び君に出会うまでは  
どうかどうか笑顔を絶やさぬままイメージ 1
36.5度のカラダで 
乗り越えなければならないんだな
36.5度のカラダで 
しっかりしなけりゃならないんだな

果てしない夜は切なさと 
孤独に抱かれてあの人の
優しさを胸に泣きまくれ 
どうにもならない悲しみの

強い風に今立ち向かってゆく  
遥か彼方を目指した旅人よ
いつか再び君に出会うまでは 
どうかどうか笑顔を絶やさぬまま

広い宇宙の上を歩いてゆく  
遠い遠い自分に出会うために
カッコ悪い道を選んだ男 
カッコ悪い夢を選んだ男
強い風に今立ち向かってゆく 
遥か彼方を目指した旅人よ
いつか再び君に出会うまでは 
どうかどうか笑顔を絶やさぬままで
 
 
1996年(平成8年)4月に始まった
猿岩石のユーラシア大陸横断ヒッチハイク」によって番組は空前の人気を博し、
社会現象とまでなった。
その感動(疑惑もありますが・・・)の
ゴールシーンです
最初から観たい方はコチラ
 
如何でしたでしょうか?
『毒舌有吉『猿岩石』曲は
なかなかのモン』キラキラ
人生、七転び八起き 生きてさえいれば
自殺まで考えた?有吉
この復活劇は偶然ではないでしょうね。
結構、研究家で人間好き、聞き上手、
そして不屈だし。
   
おまけ ホンマでっか!?TVの
    
「ではまた来週のこの時間に、お会いしましょう」 
お相手はわたくし、John3でした。