この文章は明るいものでは無い。この1年抱えていた漠然とした気持ちの一部をようやく言語化しようと腹を括ったので書く。
でもこれはいまの気持ちに過ぎなくて、またこれからもきっと2人に抱く感情は変わっていく。ただの今の私の感情の記録。
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水溜り本の番組スタッフの方のインタビュー読んで、分かったことがある。
私は毎週欠かさず聴いてはいたけれど、いつしかメールを送ることもリアタイも諦めて、TFでのんびりと聴いていた。
私はラジオにイマイチ全力でのめり込めなかったのだ。
それは、「ラジオ側が水溜りボンドに対して、ラジオに順応してもらう事を望んでいた」からだと思った。
インタビューには、"新しい2人の一面を見せる"とか"ファンの方ばかりを意識したラジオをANN0でやる意味はあるのか"とか、そんな言葉が並んでいた。
その通りだと思う。
ANNというものは独特の文化があって、歴代紡いできたスタイルがある。それに順応してもらわねば番組として成り立たない。私はリスナーとバチバチにプロレスをかます深夜ラジオを面白いと思うし、楽しいし好きだ。だからスタッフの方にどうこう言いたいのではない。
ただ、"私が"勝手に望んでいたものは、「水溜りボンドに順応したラジオ」であって、既存の型に2人が無理やり自分たちを当てはめたものではなかった。
世の中にラジオ番組はごまんと存在している。ゆるく進めていくものも好き勝手ダラダラ話すものもラジオドラマも、あらゆるスタイルがあって、決まりきったものじゃないと思う。
ずっと水溜りボンドのラジオが聴きたいと言い続けていた私が示していた"ラジオ"とは、「2人がサブチャンネルで話しているゆるいトークの体裁を少しばかり整えて、マスにも響くようなスタイルに変えて放送する」ラジオのことだったのだと、最近気づいた。
人をある意味蔑んで笑うこと。人と違うことを笑うこと。攻撃的な口調を使うこと。
それはきっと世間から見れば面白いんだと思う。
でも私は、水溜りボンドがお互いの変なところに惚れ込んで面白がって認めあって、そうして2人で肩を組んで戦っているところが好きだったのだ。
穏やかで誰しもに配慮があるのにバチバチに尖ってて、そんな2人のお笑いを新鮮に感じて好きだった。
器楽室の延長上のスタイルのまま、穏やかな2人らしさのまんまでマスと戦って欲しかった。
でも2人の選んだ戦い方は、ANNのスタイルに溶け込もうとする方法だった。
2人らしいなと思う。素直で真面目で不器用で、慣れない互いへのツッコミもリスナーや他パーソナリティとのプロレスも全部頑張ってて。
だから私は苦しかった。
死ぬほど頑張る2人が好きで、事実2人は死ぬほど頑張ってるのに、私は2人の生み出す新しいお笑いをどうしても心から好きになれなかった。
ANNはこれからも続いて欲しい。それは本当に心から思ってるし願ってる。
だけどそれは番組の面白さに対してというよりも、2人の努力に対する感情なのが苦しい。
水溜りボンドの2人が選んだ道の全てに間違いはない。2人が歩いた道だけが正解で、最善だと思う。
戦うスタイルを今さら変えて欲しいなんて思ってないし、月イチでもそのまんま突き進んで欲しいと思っている。
でも私は、"私は"、ファンのことを異常なくらい見てて、愛してくれる2人が好きなんだ。お互いをきもちゃりくらい認めあってる2人が好きなんだ。イベントの時に全員にラブレターをくれるような優しい2人が好きで、重たいくらいの愛を受け止めてくれる2人が好きで、寄り添ってくれる2人が好きで、ちょっと震えた声で「僕たちと一緒にいて欲しいです」と伝えてくれる2人が好きなんだ。
私は前にブログで、"2人と一緒に「痛いね」って嘆いたり、一緒にスクラム組んで前進する身近な援軍になりたかった気持ちもあるけど、2人はきっと私たちに綺麗な景色を見せようとしてくれているから。"と書いた。
援軍になれなくて、気づけば2人は遠くに行ってしまったように感じて、それでもやっぱり応援したいと思ってるのは確かだ。
全てを好きだと言えなくなるときがくるなんて信じたくなくて、ずっとこの1年自分の感情に蓋をしていた。
でもかりそめの「面白い」も「好き」も虚しいだけだから、私はようやくこの文章を書いた。
別にこのブログは、なにかに苦言を呈したいわけでも文句を言いたいわけでもない(そう受け取らない人もいるだろうが)。
ただ、"私が"抱く感情の話だ。
そしてそれはきっといつかまた変わる。都合のいい話だ。
2人にとって有益なファンになりたいけれど、きっともう私はそうじゃないのかもしれない。
でも、2人にたくさんのものをもらっていて、今さら水溜りボンド無しの人生なんて考えられないから。
決して邪魔をしないように、私は一生水溜りボンドのファンでいる。