30代半ばになったころ、心の闇をくぐりぬけて、
信仰に対する考えは、10代20代のころとは全く変わっていました。
が、
教会の教えを守り、定期的に足を運び、コミュニティに加わり、時に大勢で奉仕するというのには、どうしても馴染めずにいて、
そういうことはしていません。。
これは、本来良くないことだと言われるのは、知っていますし、自分でも悩むところです。
同じベクトルを持った人が、同じ意識で祈るということの大切さはわかるのですが。。。
僕はほとんど生まれながらに団体というものが苦手です。。
団体行動を乱すということでは全然なくて、居心地の悪さを感じるのです。
なんでかわかりません。ほんとうにわかりません。
また、信仰のなかで、布教することも、本来大事だと思うのですが、しません。
自分さえよければと思ってるわけでは全然ないのですが、そう誤解されてもおかしくない立ち位置に僕はいます。。
みんなが幸せになったらいい。幸せになってほしい。という想いは僕もありありだし、祈りの基本はそこです。
当たり前のことです。
しかし、宗教や信仰というだけで、アレルギー反応な世の中なのもわかるし、
なにか、道徳的なものを、きちんと守らなければならない気持ちになったり、
そういう人は、そういう面できちんとしてるかどうかわわからなくても、表面的にしてるんだろうとか。。
そういう窮屈な自由のないイメージはあるだろうし、僕も未だにあります。
本来、信仰者は道徳的にきちんとしてなければならないものです。
でも、僕はいやなんです。
無理にやるのが。
人は与えられた自由を体験してこそ、気づきや導きがあるとしか思えないからです。
そこで失敗したり、すばらしい感覚を味わったり。。
そのほうが大切じゃないでしょうか。。
そこで、命や自分や自分以外の存在の尊さを実感することができ、
大きな愛の存在を感じるきっかけになるんじゃないでしょうか。
エッチなこと大好きです。
愛する人と愛し合うのは、宇宙的に素晴らしくないですか?
ぐだぐだだらしない時、あります。
ちょっと嘘つくとき、ないわけではありません。
怒る時、あります。
最近も何年かぶりに、人にぶっ飛ばすぞというくらい腹立ったりしたことがありました。
ま、これはよくないですが、こうしないと、本人や他者に伝わらない状況・人々のレベルというのもあるのです。
それに、一生懸命だったり、大切な人にほど、怒る感情は生まれませんか?
はじめから平静な人なんているんでしょうか?
信仰者だからって、悟ったように平静にしなければならない?
ナンセンス。。
感情の起伏は、先にも言った通りよくないですが、
こういったことを経験してこそ、気持ちのコントロールと心の平静を持つことができると思ってます。
こんなごく普通の人が信仰を語ることが、信仰に垣根をなくせることだと思ってるところがあるのです。
現代人は昔と違います。
信仰をもたない人で、十分に神の加護を受けている人、わかってる人がたくさんいます。
世の中は、信仰者があくせくしなくても、浄化に向かってると思うのです。
自由な意識・行動の中で。
だからこそ、普通でいいんじゃないかと思うのです。
しかし、迷いや闇の淵で生きる人もたくさんいるわけで。。
そういう人は無神論を信仰するより、有神論で生きた方がいいと僕は思います。
そして、その入口はなんでもいいと、僕は思います。(本当はだめなんだけど。。)
信仰にもいろんなレベルがあってしかるべきだと思っているのです。
僕は、このレベルで行動しているのです。
このレベルだからこそ、人にわかってもらえることがあるのです。
僕は反宗教的なことをいってるかもしれませんが、
神をおろそかにする気持ちは毛頭ないのです。
こんな話しをしたかったわけじゃないのに、勝手に長くなってしないました。。。
本題は次に。。。