小さな人生論2 / 藤尾秀昭
愛読誌「月刊致知」の巻頭に毎号必ず載ってい藤尾社長の言葉。
月初に致知が届くと、私はまずこの文章から読み始める。
味わうように何度も何度も読み返す。
これだけ心に響く素晴らしい文章をよく毎回書けるものだと感心するが、以前藤尾社長の講演をお聞きする機会があり、その志の高さに感心し、納得した。
その文章をまとめた本が「小さな人生論」であり、これはその第二集。
数ページにまとめられた簡潔な文章の中に凝縮された思いがストレートに心に響いてくる。
松井秀喜がヤンキースに移籍する際に、川島元コミッショナーが彼に渡した本がこの「小さな人生論」だった。
選りすぐられた珠玉の言葉の数々は、何度読み返しても色あせることはない。
素晴らしい文章の中から、ひとつご紹介させていただく。
少年は両親の愛情をいっぱいに受けて育てられた。殊に母親の溺愛は近所の物笑いの種になるほどだった。
その母親が姿を消した。庭に造られた粗末な離れ。そこに籠ったのである。結核を病んだのだった。近寄るなと周りは注意したが、母恋しさに少年は近寄らずにはいられなかった。
しかし、母親は一変していた。少年を見ると、ありったけの罵声を浴びせた。コップ、お盆、手鏡と手当り次第に投げつける。青ざめた顔。長く乱れた髪。荒れ狂う姿は鬼だった。少年は次第に母を憎悪するようになった。哀しみに彩られた憎悪だった。
少年六歳の誕生日に母は逝った。「お母さんにお花を」と勧める家政婦のオバサンに、少年は全身で逆らい、決して棺の中を見ようとはしなかった。
父は再婚した。少年は新しい母に愛されようとした。だが、だめだった。父と義母の間に子供が生まれ、少年はのけ者になる。
少年が九歳になって程なく、父が亡くなった。やはり結核だった。
その頃から少年の家出が始まる。公園やお寺が寝所だった。公衆電話のボックスで体を二つ折りにして寝たこともある。そのたびに警察に保護された。何度目かの家出の時、義母は父が残したものを処分し、家をたたんで蒸発した。
それからの少年は施設を転々とするようになる。
十三歳の時だった。少年は知多半島の少年院にいた。もういっぱしの「札付き」だった。
ある日、少年に奇跡の面会者が現れた。泣いて少年に棺の中の母を見せようとしたあの家政婦のオバサンだった。オバサンはなぜ母が鬼になったのかを話した。死の床で母はオバサンに言ったのだ。
「私は間もなく死にます。あの子は母を失うのです。幼い子が母を別れて悲しむのは、優しく愛された記憶があるからです。憎らしい母なら死んでも悲しまないでしょう。あの子が新しいお母さんに可愛がってもらうためには、死んだ母親なんか憎ませていたほうがいいのです。そのほうがあの子は幸せになれるのです」
少年は話を聞いて呆然とした。自分はこんなに愛されていたのか。涙がとめどなくこぼれ落ちた。札付きが立ち直ったのはそれからである。
作家・西村滋さんの少年期の話である。
喜怒哀楽に満ちているのが人生である。喜怒哀楽に彩られたことが次々に起こるのが人生である。だが、その表面だけを掬いとり、手放しで受け止めてはなるまい。喜怒哀楽の向こうにあるものに思いを馳せつつ、人生を歩みたいものである。
その時、人生は一層の重みを増すだろう。われわれが人間学を学ぶ所以もそこにある。
中江藤樹の言葉がある。
「順境に居ても安んじ、逆境に居ても安んじ、常に担蕩々として苦しめる処なし。これを真楽というなり。萬の苦を離れてこの真楽を得るを学問の目当てとす」

藤尾 秀昭
小さな人生論〈2〉「致知」の言葉
月初に致知が届くと、私はまずこの文章から読み始める。
味わうように何度も何度も読み返す。
これだけ心に響く素晴らしい文章をよく毎回書けるものだと感心するが、以前藤尾社長の講演をお聞きする機会があり、その志の高さに感心し、納得した。
その文章をまとめた本が「小さな人生論」であり、これはその第二集。
数ページにまとめられた簡潔な文章の中に凝縮された思いがストレートに心に響いてくる。
松井秀喜がヤンキースに移籍する際に、川島元コミッショナーが彼に渡した本がこの「小さな人生論」だった。
選りすぐられた珠玉の言葉の数々は、何度読み返しても色あせることはない。
素晴らしい文章の中から、ひとつご紹介させていただく。
少年は両親の愛情をいっぱいに受けて育てられた。殊に母親の溺愛は近所の物笑いの種になるほどだった。
その母親が姿を消した。庭に造られた粗末な離れ。そこに籠ったのである。結核を病んだのだった。近寄るなと周りは注意したが、母恋しさに少年は近寄らずにはいられなかった。
しかし、母親は一変していた。少年を見ると、ありったけの罵声を浴びせた。コップ、お盆、手鏡と手当り次第に投げつける。青ざめた顔。長く乱れた髪。荒れ狂う姿は鬼だった。少年は次第に母を憎悪するようになった。哀しみに彩られた憎悪だった。
少年六歳の誕生日に母は逝った。「お母さんにお花を」と勧める家政婦のオバサンに、少年は全身で逆らい、決して棺の中を見ようとはしなかった。
父は再婚した。少年は新しい母に愛されようとした。だが、だめだった。父と義母の間に子供が生まれ、少年はのけ者になる。
少年が九歳になって程なく、父が亡くなった。やはり結核だった。
その頃から少年の家出が始まる。公園やお寺が寝所だった。公衆電話のボックスで体を二つ折りにして寝たこともある。そのたびに警察に保護された。何度目かの家出の時、義母は父が残したものを処分し、家をたたんで蒸発した。
それからの少年は施設を転々とするようになる。
十三歳の時だった。少年は知多半島の少年院にいた。もういっぱしの「札付き」だった。
ある日、少年に奇跡の面会者が現れた。泣いて少年に棺の中の母を見せようとしたあの家政婦のオバサンだった。オバサンはなぜ母が鬼になったのかを話した。死の床で母はオバサンに言ったのだ。
「私は間もなく死にます。あの子は母を失うのです。幼い子が母を別れて悲しむのは、優しく愛された記憶があるからです。憎らしい母なら死んでも悲しまないでしょう。あの子が新しいお母さんに可愛がってもらうためには、死んだ母親なんか憎ませていたほうがいいのです。そのほうがあの子は幸せになれるのです」
少年は話を聞いて呆然とした。自分はこんなに愛されていたのか。涙がとめどなくこぼれ落ちた。札付きが立ち直ったのはそれからである。
作家・西村滋さんの少年期の話である。
喜怒哀楽に満ちているのが人生である。喜怒哀楽に彩られたことが次々に起こるのが人生である。だが、その表面だけを掬いとり、手放しで受け止めてはなるまい。喜怒哀楽の向こうにあるものに思いを馳せつつ、人生を歩みたいものである。
その時、人生は一層の重みを増すだろう。われわれが人間学を学ぶ所以もそこにある。
中江藤樹の言葉がある。
「順境に居ても安んじ、逆境に居ても安んじ、常に担蕩々として苦しめる処なし。これを真楽というなり。萬の苦を離れてこの真楽を得るを学問の目当てとす」

藤尾 秀昭
小さな人生論〈2〉「致知」の言葉