修身教授録 / 森信三 | [A] Across The Universe

修身教授録 / 森信三

「国民教育の父」森信三先生が昭和十二年、大阪天王寺師範(現大阪教育大学)本科一部生へ行った「修身」授業の記録。
「修身」といいつつ、授業の中身は一般的な徳目ではなく、人生の意義、生き方の本質に迫る素晴らしいものだ。
二年間にわたる授業の記録。
授業の底に一貫して流れる感覚は、静かであるものの厳しさを感じる。
授業の臨場感が読む側に伝わってくる。
戦前の日本では、これほど素晴らしい教育が行われていたのかと感動する。
現在の先生たちが、森先生の授業の一割でも吸収することができれば未来の日本は違ってくるだろう。



かくして傲慢は、外見上いかにも偉そうなにもかかわらず、実は人間がお目出たい証拠であり、また卑屈とは、その外見のしおらしさにもかかわらず、実は人間のずるさの現れと言ってもよいでしょう。そうしてこのお目出たさとずるさとは、それが真実でない点では一つであります。実際事実においても、目上の人に向かって卑屈な人間は、目下のものに対しては、多くは傲慢な態度をとるということは、すでに申した通りであります。(謙遜と卑屈より)


ですから時には、相手の人物が自分より劣っていると考えられ、また周囲の人々も、内心それを認めているような場合でも、とにかく相手が地位の上で上位者である限り、それ相応の敬意を欠いてはならぬと言うことであります。(中略)また妙なもので、かような態度で仕えていますと、それほどでもないと思っていた相手の中にも、しだいに長所が見えてくるものであります。否、人間の知恵と言うものは、そうした態度によって初めて磨かれるものであり、また人間の知恵というものも、そうした態度になることによって、これまで気づかなかった多くの事柄がしだいに見えてくると言うわけです。(上位者に対する心得より)


せめて書物だけは、毎日多少でも読むように努めねばならぬと思うのです。ところが食物ですと、一食食べなくてもすぐに体にこたえます。否、一食どころか、一時間遅れても大不平でしょう。(中略)ところが肝心の心の食物となると、何日抜けようと、一向に平気な人が多いようです。しかし、人間も、読書をしなくなったら、それは死に瀕した病人がもはや食欲がなくなったのと同じで、なるほど肉体は生きていても、精神は既に死んでいる証拠です。(中略)心が生きているか死んでいるかは、何よりも心の食物としての読書を欲するか否かによって、知ることができるのです。これこそ自分の心の死活をはかる、何よりのバロメーターと言ってよいでしょう。(伝記を読む時期より)


昔は剣術とか柔術とか言いながら、武の道を体していましたが、現在では剣道とか柔道とか言いながら、かえって技の末節にかかわって、道を忘れる傾向があるようです。思うにそれは、昔の人は真に道を貴んだが故に、みだりに剣道だの柔道だのとは言わないで、剣術・柔術と言ったのでしょう。ところが今の人は、道の貴さと厳しさが分からなくなったのです。それゆえ平気で剣道だの柔道だのと言うのでしょう。そのためにかえって道を逸する結果ともなるわけです。
ところで、以上申したことを、われわれ教師について申してみれば、教室ではいかにも先生ぶって、しかつめらしい顔をしていても、それだけでは駄目だというわけです。つまり、教師は教室よりも、むしろ廊下や、さらには学校への往復の道に気をつけねばならないのです。(平常心是道より)



かつて日本はこれほど質の高い修身教育を行っていた。
このような教育が戦後の高度成長の日本を支えたのだろう。
翻って現在の日本の教育はどうだ。
森先生は天で苦渋の表情を浮かべておられるに違いない。

現代に生きる全ての人に読んでもらいたい素晴らしい内容の本だ。
これからの人生、座右の書になるかもしれない。


森 信三
修身教授録―現代に甦る人間学の要諦