金生遺跡は太陽暦の発祥地なのか という仮説

日の出を見続けて
日の出を見ることは、星と月、日の出、太陽を見続けることになる。
日の出を見る為に見に行って、分ってきたことは、
このところ、日の出だけに注目していたが、日の出を待つことは、日の出までの
星空を見ることになる。
日の出前の星がどんな位置にあるのか、東の空はどうか、西の空はどうなっているのか。
その時の月の位置は。となる。

当然のことながら、星と月と日の出を全体的に観察することになる。
しかし星に定点を定めて評価することは難しかったのだろう。
星は月と同じように移動して行ってしまうことを知っていたはず。
シュメール文明までには、1万年はあった。その時間から縄文人にとって、星の移動は知られていたことだろう。
日の出観測をしていた縄文人にとっては、2000から3000年もすれば、日の出と星の関係は、移動してしまうことは知られていたことだった。縄文時代は石棒を用いて太陽の直接観測を行っていた、それはその後のどの文明にも出来なかったことである。現代文明の暦も、太陽観測から造られている暦ではない、従って太陽暦ではない。その証拠に太陰暦とシンクロさせることが出来ていない。こうした知識が全く欠けているからである。
シュメールには太陽の直接観測が出来ないため、その経験がなかったことから、星占いに向かってしまったものと思う。

 

 


 

太陰暦とシンクロさせた暦の例、2024.2.4日 立春を年始め 1月元旦として、七曜で月齢を示している。

七曜には海王星の 海 を利用する。日曜は満月と新月を示す。

 

 

引用します----ーーーーーーーーーーーー

古代エジプトは太陽暦を使い、バビロニアでは太陰暦が使われていた
古代エジプトでは、初め1年を、12ヶ月、1ヶ月を30日とし、それに5日間の祭日を加えた365日の「太陽暦」を使っていました。

しかし、正確な恒星年の1年は365日と4分の1日であるため、長い間にはどうしても暦と季節にずれが生じてしまいます。
そこで、これを補うために「ソティス暦」を併用しました。すなわち、ナイル河の増水を告げるシリウス星が太陽とともに東天に出現するのを見て夏至を知り、1年の長さを決めたのです。
これに対して、バビロニアでは朔望月(さくぼうげつ)をもとにした「太陰暦」が使われていました。
朔望月とは、月の満ち欠けの1周期のことで、朔(新月)から次の朔、あるいは望(満月)から次の望までの期間を言います。
朔とは太陽と月の合(太陽と月の角度が0度)、望は太陽と月の衝(太陽と月の角度が180度)の時である。
1ヶ月の始まりを細い新月が日没の空にかかる時として、そこから日を数えて1か月の長さを決めていたのです。
ところが、太陰暦の1か月は29日または30日で、1年では354日となり、本当の1年の365日とは11日も差があります。
どうしても1年を正確に計る必要が出てきたのです。
そこで、ある特殊な星が日の出時に出現するのを見て年初とし、1年の長さを決めることにしました。
この星は、現代の研究によると、馭者座(ぎょしゃざ)の1等星カペラ、後には牡羊座のアルファ星ハマルで、春分の頃の東空に太陽に先立って姿を現し、バビロニアの年始「春分正月」を定めたといわれます。