土器は第三の道具でもある
シュメールで知られているように、粘土板に記録を残していた。
彼らよりも5000年以上も古くから、粘土を利用して土器を造っていたのが縄文時代である。
縄文人はそれよりも早くから文明を持ち、新石器時代の生業開発の画期を、粘土、焼いて土器にして記録して残していた。土器はメディアであり、記録材である。これは新石器時代の記録であり、文字は無いものの、世界最初の歴史の記録である。


縄文とは草創期に始まり、前期半ばで終了する模様である。主として弓の弦の開発記録であると思う。

それは世界で初めての新石器時代の生業開発の記録であり、イヌ、尖頭器や有茎尖頭器を開発したという画期の記録は残されていないことから、それらは土器開発以前の出来事であったのではないかと考える。


弓には弦が欠かせない、その弦を初めて開発して、投げ槍よりも遠くまで飛ばす威力を持ち、その驚きを記録していた。それが隆起線文土器、縄文の始まりである。続いて鏃を有茎尖頭器の投げ槍から、もっと軽く威力のある矢を飛ばすことのできる石鏃を開発した、爪形文土器はこれである。

弓の弦は更に強く細くと開発が進められそれは多縄文土器など、ついに釣り糸が造れるようになった。

そして魚取りには網が造られるようになった。網に使うロープが大量生産できるようになった。

 


この記録からは、原種マメの栽培方法が分かり、それから栽培は5000年以上続けられて、前期には栽培種が完成、中期にはマメ類の農耕を開始していたのではないか。

 



早期に土器の口縁に突起が現れた。その突起の示す数の推移は、2、4、6、8、12、3、5、7 という特別な数字の列に成っている。これは太陽暦が開発され、太陰暦も開発され、24節気の暦から 72候の暦まで到達したことを示す暗号であると解読した。

 



図はお借りして、一部手を入れています。
引用します----ーーーーーーーーーーーー

縄文人の「第二の道具」と呼ばれる土偶と石棒の意味
概説・縄文時代~その最新常識(10)縄文時代の精神文化
山田康弘山田康弘東京都立大学人文社会学部人文学科歴史学・考古学教室 教授
情報・テキスト
縄文時代の精神文化に影響を与えたのは、定住性の強弱と人口の多寡。人口が多く、定住性も非常に強いと考えられる東日本では土偶や石棒が急激に発達したが、これらは二種類に分けることができる縄文人の道具の中で「第二の道具」と呼ばれるものだ。「第二の道具」はどんな特徴を持ち、土偶や石棒は何を表現したものなのか。(全13話中第10話)
時間:08:33
収録日:2019/06/04
追加日:2019/11/19
ジャンル:
歴史・民族考古学
キーワード:
土偶 土器 縄文時代 バイオマス
≪全文≫
●縄文文化に大きな影響を与えたのは定住性の強弱と人口の多寡

 縄文人の生活は、前回までにお話したようにさまざまなタイプの村に住んでいたということが分かってきましたが、その背景にある社会の複雑性は、定住性の強さだけではなく、人口の多さによっても変わってきます。

 縄文時代の精神文化は、定住性の強弱とともに、人口の多寡という変数でも判断することができます。人口が少なく、集落の数もそれほど多くなく、かつ定住性がそれほど強くない中国地方では、土偶や石棒などの呪術具は発達しません。一方、人口が多く、定住性も非常に強いと考えられる東日本では、土偶や石棒が急激に発達します。このように、定住性の強弱と人口の多寡が、縄文社会、縄文文化に与えた影響は非常に大きいことが分かります。

 その点を踏まえた上で、精神文化の在り方についてお話しします。食料のほとんどを自然に依拠していた縄文人にとって、集落周辺のバイオマス、すなわち利用可能な食料資源の総量の増減は、最大の関心事の一つです。集落周辺のバイオマスが常に集落全体を維持できるだけの十分な量を保っているかという点は、実は大きな問題なのです。

 例えば、ある年は非常に寒く、ドングリがあまり採れず、動物も少ないということがあるかもしれません。その年によって、バイオマスの大きさは増減します。現代人のわれわれもそうですが、食べ物などのストックは多ければ多いほど安心できるわけです。

 そのため、縄文時代の人たちは意図的に拡散します。集落の規模そのものを小さくすることで、生存維持を図るのです。100人で住むよりは10人ずつで住む方が、自力で生活できると考えて、集落を分けるのです。

 あるいは集落のベースキャンプといわれる本拠地そのものを、別の場所に移動させるという物理的な方法で対処することもありました。また、食料となる動植物を積極的に管理しました。このような方法で、バイオマスの少ない場合にも適応や対応していたと思われます。


●縄文人が使った道具は二種類に分けることができる

 縄文時代の人たちは、以上のようなマンパワーや物理的な方法を用いる一方で、祈るという観念的な方法でバイオマスの維持や増産を企図していました。

 例えば、石斧やドングリを粉にする石皿、磨り石といった、縄文人が使ったさまざまな道具は、大きく二つの種類に分けることができます。

 一つは、生業生活において直接役立つものです。弓矢、石斧、石皿などが挙げられます。こうした道具を、小林達雄先生(考古学者・國學院大學文学部名誉教授)は「第一の道具」と呼びました。それに対して、生業には直接役立つわけではないが、土偶や石棒など呪術や祭祀に使用されるものを「第二の道具」と呼びました。

 第一の道具は直接生産に関わるものです。第二の道具は、基本的には精神文化に関わる祈りの道具です。

 土偶は、第二の道具の典型例です。

 先ほどから説明している、石棒も第二の道具の典型例です。

 この第二の道具を詳しく見ていきましょう。石棒はいわばファロス、男性器の象徴です。対して土偶は、基本的には女性です。関東から中部高地にかけて出てくる中期の土偶の多くは基本的にお腹が大きく、妊産婦を表現しています。

 男性と女性、そして妊娠・出産という側面が介在しています。このような女性性や男性のシンボルが、第二の道具の中では全面的に押し出されているのです。先ほどから説明している通り、土偶や石棒は、男性性や女性性の象徴であり、縄文時代の精神文化を形成する、最も代表的なものであるといえます。


●縄文土器は男性性と女性性の二項対立という構造を持っている

 土偶と石棒が遺跡から一緒に出土するならば、一緒に用いられたと考えることができます。しかし、実際にはともに出土することはあまりありません。土偶は土偶だけ、石棒は石棒だけで発見されるのです。あるいは、石棒は後述しますが「土器埋設遺構」と呼ばれるものの中で土器とワンセットで出てくることがよくあります。

 ただ、縄文時代の人たちも、男性性と女性性が交接する、つまり性的な結合によって新しい生命が誕生することは、おそらく知っていたと思われます。

 例えば、青森県の大湊近川(おおみなとちかがわ)遺跡では、トドやアザ...