金生遺跡は太陽暦の発祥の地だったのではないか

 縄文時代の金生遺跡は、立地の地理・地形が、太陽暦に関係する日没示す山が存在する。
冬至の日の出位置は茅が岳の麓にあることが分り、これに違和感があり、このことから金生遺跡は、冬至のその日を確定するための天文台ではないかという疑いを持った。
 2021年の立春について、現代の天文台は2020年までは2月4日としてきたが、2021年の今年は日付が変わって、2月3日になると言っていた。


図 通称茅が岳 ピークは金が岳


それまでの日の出位置は、冬至の観測から大寒まででは、30日でピークから半分の位置にも行かなかったので、立春まで大寒から15日と言うことは、ピークまではどうせ行かないだろうと推測していた。
また、どうせ縄文時代には現代の暦のそんなことは分っていないはずだから、とにかく最小限一日だけ観測して様子を見るにはどうすれば良いかと考え、それには今まで通りの2月4日の方がよいだろうと、日の出を見に行った。


ところが2月4日の日の出は、茅が岳のピークを過ぎて僅かに左に外れてしまつていたので、これは2月3日の日の出がピークに設定されていたと想定できる結果だった。このことにより縄文時代の暦は、現代の暦と一致するものなのだとわかり、驚いてしまった。これを見たことが縄文時代の太陽暦を、本気で考える切っ掛けとなった。


山からの日の出を観測しようとすれば、自分の立つ位置を決めておく必要がある。自分の立つ位置を変えてしまえば、山から出る日の出の位置が変わってしまう。それには腐ることのない石棒が適当だろうと思う。
縄文時代にこの立地で石棒を立て観測を始めたのだろう。茅が岳からの日の出の観測である。




ここの地形は20万年前の八ヶ岳山体崩壊で形成されたものといわれている。

 

先端 韮崎、右端が八ヶ岳で三角形状が山体崩壊地形で、その真ん中辺りに金生遺跡がある

 

その後の浸食で変化が生じたとして、現在のこの地形は数万年前から変わっていないのではないだろうか。
形成されたこの地形は幸いなことに太陽の直接観測には大変好都合な地形だった。
それは立春、立秋の日の出と冬至の日の入りの三点を、たまたま周囲にある山のピークで観測できる奇跡的な地形だった。

日の出位置


 


日の入り位置

 

 

ランドスケープと配石

 

 

このような奇跡的地形に恵まれた立地で、直接の太陽観測が石棒を起点にして始められ、太陽暦が始められ、縄文時代を通じて完成されたのではないだろうか。

 

図は一部お借りしました

引用します----ーーーーーーーーーーーー

 

縄文人の「第二の道具」と呼ばれる土偶と石棒の意味
概説・縄文時代~その最新常識(10)縄文時代の精神文化
山田康弘山田康弘東京都立大学人文社会学部人文学科歴史学・考古学教室 教授
情報・テキスト
縄文時代の精神文化に影響を与えたのは、定住性の強弱と人口の多寡。人口が多く、定住性も非常に強いと考えられる東日本では土偶や石棒が急激に発達したが、これらは二種類に分けることができる縄文人の道具の中で「第二の道具」と呼ばれるものだ。「第二の道具」はどんな特徴を持ち、土偶や石棒は何を表現したものなのか。(全13話中第10話)
時間:08:33
収録日:2019/06/04
追加日:2019/11/19
ジャンル:
歴史・民族考古学
キーワード:
土偶 土器 縄文時代 バイオマス
≪全文≫
●縄文文化に大きな影響を与えたのは定住性の強弱と人口の多寡

 縄文人の生活は、前回までにお話したようにさまざまなタイプの村に住んでいたということが分かってきましたが、その背景にある社会の複雑性は、定住性の強さだけではなく、人口の多さによっても変わってきます。

 縄文時代の精神文化は、定住性の強弱とともに、人口の多寡という変数でも判断することができます。人口が少なく、集落の数もそれほど多くなく、かつ定住性がそれほど強くない中国地方では、土偶や石棒などの呪術具は発達しません。一方、人口が多く、定住性も非常に強いと考えられる東日本では、土偶や石棒が急激に発達します。このように、定住性の強弱と人口の多寡が、縄文社会、縄文文化に与えた影響は非常に大きいことが分かります。

 その点を踏まえた上で、精神文化の在り方についてお話しします。食料のほとんどを自然に依拠していた縄文人にとって、集落周辺のバイオマス、すなわち利用可能な食料資源の総量の増減は、最大の関心事の一つです。集落周辺のバイオマスが常に集落全体を維持できるだけの十分な量を保っているかという点は、実は大きな問題なのです。

 例えば、ある年は非常に寒く、ドングリがあまり採れず、動物も少ないということがあるかもしれません。その年によって、バイオマスの大きさは増減します。現代人のわれわれもそうですが、食べ物などのストックは多ければ多いほど安心できるわけです。

 そのため、縄文時代の人たちは意図的に拡散します。集落の規模そのものを小さくすることで、生存維持を図るのです。100人で住むよりは10人ずつで住む方が、自力で生活できると考えて、集落を分けるのです。

 あるいは集落のベースキャンプといわれる本拠地そのものを、別の場所に移動させるという物理的な方法で対処することもありました。また、食料となる動植物を積極的に管理しました。このような方法で、バイオマスの少ない場合にも適応や対応していたと思われます。


●縄文人が使った道具は二種類に分けることができる

 縄文時代の人たちは、以上のようなマンパワーや物理的な方法を用いる一方で、祈るという観念的な方法でバイオマスの維持や増産を企図していました。

 例えば、石斧やドングリを粉にする石皿、磨り石といった、縄文人が使ったさまざまな道具は、大きく二つの種類に分けることができます。

 一つは、生業生活において直接役立つものです。弓矢、石斧、石皿などが挙げられます。こうした道具を、小林達雄先生(考古学者・國學院大學文学部名誉教授)は「第一の道具」と呼びました。それに対して、生業には直接役立つわけではないが、土偶や石棒など呪術や祭祀に使用されるものを「第二の道具」と呼びました。

 第一の道具は直接生産に関わるものです。第二の道具は、基本的には精神文化に関わる祈りの道具です。

 土偶は、第二の道具の典型例です。

 先ほどから説明している、石棒も第二の道具の典型例です。

 この第二の道具を詳しく見ていきましょう。石棒はいわばファロス、男性器の象徴です。対して土偶は、基本的には女性です。関東から中部高地にかけて出てくる中期の土偶の多くは基本的にお腹が大きく、妊産婦を表現しています。

 男性と女性、そして妊娠・出産という側面が介在しています。このような女性性や男性のシンボルが、第二の道具の中では全面的に押し出されているのです。先ほどから説明している通り、土偶や石棒は、男性性や女性性の象徴であり、縄文時代の精神文化を形成する、最も代表的なものであるといえます。


●縄文土器は男性性と女性性の二項対立という構造を持っている

 土偶と石棒が遺跡から一緒に出土するならば、一緒に用いられたと考えることができます。しかし、実際にはともに出土することはあまりありません。土偶は土偶だけ、石棒は石棒だけで発見されるのです。あるいは、石棒は後述しますが「土器埋設遺構」と呼ばれるものの中で土器とワンセットで出てくることがよくあります。

 ただ、縄文時代の人たちも、男性性と女性性が交接する、つまり性的な結合によって新しい生命が誕生することは、おそらく知っていたと思われます。

 例えば、青森県の大湊近川(おおみなとちかがわ)遺跡では、トドやアザ...