ここ数日、北朝鮮との戦争が起こるかもしれないという話題がテレビや雑誌でかまびすしい。
実際に起きれば、日本にミサイルが飛来する可能性も無くはなく、こういった報道は国民に恐怖心をあおるには十分なのだが、その割には、何か現実味のないどこかほかの世界のことのようにも思えてしまうのはなぜだろうか。
一つには、長年戦争がなかったため、平和ボケしているというのもあるだろう。しかし政府の対応がその感覚を助長している面がある。今のところ、一般人へのミサイル対策はJアラートのみだ。これが津波になると、警報が出た後、非難する場所や避難訓練など様々な対応がなされている。せめてミサイルが飛んでくる可能性の高い米軍基地の周辺などに防空壕を掘るでもしたら、もう少し切迫感が伝わってきたようにも思う。
このアンバランスな感覚は、どこから来るものだろうか。
もう一つ、妙な事は、テレビなどで話されていることは、悲観論を述べるのせよ、楽観論を述べるにせよ、北朝鮮に核兵器を持たせないようにするには、これが最後のチャンスだという切迫感である。そして、いったん北朝鮮に核兵器保有国であることを認めてしまえば、東アジアの軍事バランスが崩れ、取り返しのつかないことになるという焦燥感が、最悪軍事行動もありうるというという観測にもつながり、ミサイルが飛来するという恐怖につながるのである。
そして、この最後の機会という判断に異を唱える人はいない。いろいろなことを言っている人がいる中で、ある一点で奇妙なことで一致している場合、そこを疑ってみるというのは、大事だと思う。
また、このように人々が差し迫った危険について議論している時こそ、少し引いて、長期的な観点から、問題の本質を洗い出すというのも重要である。
兵器の観点からいうと、人類は古来、盾と矛という二種類の武器を使ってきた。防御と攻撃である。長い間、この二つの相反する兵器は拮抗していた。しかし、核兵器が登場してからというもの、これを防御する有効な手段がなく、均衡は完全に崩れてしまった。また、核兵器は甚大な破壊力を持つことから、一旦核戦争が起これば、攻撃された側のみならず、人類の生息環境に多大な影響をもたらす。このことから、核抑止力という考えが生まれてきた。しかし、圧倒的な核兵器を持つ米国の圧力をもってしても、北朝鮮の核武装を阻止出来なかったこの核抑止という考えが有効なのか、疑念がある。もう一つは、人々の恐怖心に訴えて、核を廃絶しようとする運動である。しかし、人は、核が恐ろしいからこそ、核を持とうとするものである(核抑止論)このため、この運動は成功していない。それどころか、現存の核は認めて、それ以上核を増やさないという、核拡散禁止も条約こそ締結されたものの、実際にそれにほころびが出ていることは、周知のとおりである。
その結果、軍事的にはどういう世界になったかというと、高性能な武器を持っていることが軍事的優位に立つ条件ではなくなった。貧弱ではあっても、相手に届く矛さえ持っていれば、「いざとなれば、あなたと刺し違えて死ぬ覚悟です」といえる胆力を持っているほうが、交渉では優位に立つ。これが、北朝鮮のような経済的には弱小な国がアメリカを相手に堂々と渡り合える条件を作り出しているのである。平等と言えば平等であるが、危険なこと極まりない。
こうした状況を打開するには、たとえどんなに困難であっても、盾と矛のバランスを回復することが必要だと考える。そのためには時間が必要だ。いま、北朝鮮と対決しようとするのは、最悪の時期である。アメリカが焦っているのはわかる。もう少しでアメリカの主要都市が射程に入るミサイルを北朝鮮が開発しようとしているのだから。しかし日本についていえば、もうすでに射程に入っている。アメリカの国益と日本の国益は違う。にもかかわらず、アメリカと歩調をああせてヒステリックに騒ぎ立てるのは、どういうつもりなのか。北朝鮮の脅威はかつてない次元に高まったといいながら、実際は何も準備はしていない政府は何を考えているのかと、いぶかしがる日々である。