三宅香帆さんという方の著作です。
これは目から鱗でした。
「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」
仕事でいっぱいいっぱいになり、他の事に目がいかなくなるケース、結構多いと思います。
が、一方で、仕事のうさはらしを他の事で行い、本を読む余裕がないというパターンもある気がします。
週5日8時間(以上)の勤務で、週2日(ない人もいる)の少ない休みを雑用や遊び、あるいはただ休むだけに費やし、また次の週に仕事で疲弊する。
私自身も、比較的本は読んでいたほうですが、出勤していた頃はその余裕が乏しかったですね。
この著書の中で、このような事を言ってます。
「仕事は男女ともに半身で働くものだ」(上野千鶴子氏)
はい、「全身全霊」で働くことを美徳にしがちだった日本社会ですが、それを否定しようというのです。
つまり、半身で「仕事の文脈」を持ち、もう半身は「別の文脈」を取り入れようというのです。
この「別の文脈」=新しい文脈と言い換えることが出来ます。これを知る余裕がないときは、どうしても知りたい情報だけ(仕事の事や稼ぐ事だけ)を知りたくなってしまうという。
「未知」というノイズを受け入れる余裕がなくなるというのです。
これからの日本社会は、余裕を持てるような「半身で働く」ことが当たり前の社会になってほしい。
働くことに限らず、あらゆることを「半身で行う」ことを許される社会になってほしい。
自分の文脈を一つのことに集約するのではなく、「半身で取り組む」くらいでいい。
「半身で働く」「半身で家事をする」「半身で遊ぶ」「半身で勉強する」「半身で読書する」「半身で散歩する」「半身で・・・」他にもいっぱいあるでしょうけど。
ただ、一瞬だけなら一つの事に全身全霊を傾けるのもいい。
でも基本的には「半身」で行うことを当然とすべきだ。
「半身」とは、様々な文脈に身をゆだねることだといいます。
様々な居場所に自分をゆだねる、つまり居場所を創る。
その中で生きている時分を自覚することで、自分自身も余裕が生じ、他者の文脈を受け入れる余裕ができるといいます。
読書は、自分とは関係のない他者を知る文脈を増やす手段だと。
「全身」で一つの文脈にコミットメントすることは、自分を忘れて自我を喪失させて没頭することですが。
ニーチェはこれを否定します。
「そんなのは、人生を信じていない」と。
自分を覚えておくために、自分以外の人間を覚えておくために、半身社会を生きる必要がある。
そう、余裕を持てるように半身を残しておくべき。
私も、半身で色々な事をやって生きていこうと思いました。
新たな人生に向かって。
(日時指定投稿です)