5月31日から6月3日まで、函館~弘前へ旅行してまいりました。
まずは函館からです。
2日目は、土方歳三と中島三郎助の最期の地巡りのあと、五稜郭へ行きました。
まずは、五稜郭全体が一望できる五稜郭タワーへ行きます。
このタワーの1階に、土方歳三の像がありました
ここの展望室から、五稜郭を眺めます
五稜郭についてお話しします。
五稜郭
元の名は「亀田役所土塁」と言ってましたが、後に五稜郭が正式名となりました。
洋式築城法を採用し、5つの稜堡が星形を為す独特の縄張りで、従来の和式城郭とは全く違う存在です。
では、なぜ五稜郭が箱館に築城され、洋式築城法が採用されたのか。
これは、江戸時代後期の日本とロシアの地政学的な面を含めた外交関係が大きく影響したことによります。
18世紀末頃から、極東で南下政策を開始したロシアは、カムチャッカ半島からベーリング海にかけて勢力を伸ばします。
そしてさらに樺太・千島、さらには蝦夷地(北海道)にも進出の機を窺い、日本に度々開国を促し始めていきました。
幕府の蝦夷地経営は明らかにロシアの南下政策を意識したもので、文化4年(1807)択捉事件という日露間の国境紛争ともいえる問題が起こりました。
ロシア皇帝だったアレクサンドル1世は、特使レザノフを長崎に派遣し、日本との国交通商を要求します。
しかし、幕府はこれを拒否します。
憤ったレザノフは報復として、部下に樺太・千島の集落を次々と襲撃させたのです。
幕府は一旦は蝦夷地を直轄地にし、その後高田屋嘉兵衛の活躍もあり、蝦夷地はしばしの安定を見ました。
その後、安政元年(1854)日露和親条約を結び、樺太は日露両国の共同管理、千島は択捉島以南を日本領に、得撫島以北をロシア領することで、一応の安定を見ます。
ただ、ロシアの南下政策は変わらず、その脅威は依然として続いていました。
そこで、幕府は箱館の開港に先立ち、安政元年6月に箱館奉行を再設置します。
奉行らは、箱館防備のために既設台場の改築、あるいは新築を要すると幕府へ上申します。
当初箱館山のふもとにあった箱館奉行を亀田の地に移し、同時にそれが五稜郭築造のきっかけとなります。
箱館役所の本拠たる亀田役所は、土塁を持つ防御拠点として築造され始めます。
ロシアの脅威がいかに日本側を恐れさせていたかがわかります。
この五稜郭と呼ばれるようになる土塁の設計を担当したのは、箱館奉行支配諸術調所教授の武田斐三郎という人物でした。
武田は「西洋諸州陣法術書」を参考に稜堡式城郭を採用します。
安政4年(1857)から五稜郭の築造が開始されましたが、工期短縮と予算節減という制限があり、そのせいで当初の予定とはかなり変わってしまうなど、紆余曲折が激しく、工事は難航します。
ようやく一応の完成を見たのが7年後の元治元年(1864)5月でした。
ただそれも、当初の計画を縮小したもので、政庁舎としては十分に機能しましたが、防御施設としては十分なものとはいえなかったようです。
そもそも稜堡式城郭による防備という概念は、既にこの頃大砲の高性能化により、世界の軍事的思想からすでに遅れていたようです。
この一見優れたようで実は時代遅れだった五稜郭を見ると、戦艦大和があれほど巨大な戦艦でありながら、既に時代遅れだった事実と似通っている気がします
その事実を、土方はどう思って戦っていたのだろうか…。
内部は堀と土塁が実に立派ですが…。
この写真は土饅頭と思われます。
旧幕軍の戦死者が埋められた場所ではないかと…
続きます。
(日時指定投稿です)