5月31日から6月3日まで、函館弘前へ旅行してまいりました。

まずは函館からです。

2日目は、土方歳三中島三郎助の最期の地巡りのあと、五稜郭へ行きました。

私としては、幕末戊辰戦争時に、最後まで旧幕軍に属して懸命に戦い、壮絶な戦死を遂げた土方歳三と中島三郎助に思い入れが強く、どうしても二人の最期の地を見ずにいられませんでした。

 

土方歳三の最期の地碑から20分程度歩き、中島三郎助父子の最期の地へ。

浦賀の散歩のときにお話しした中島三郎助の話を、函館でもすることになりました。

偶然のようで偶然ではなく、浦賀と箱館という港町で活躍した三郎助の足跡を追いたくなりましたキラキラ

中島三郎助は自らだけでなく、長男と次男もこの地で戦死しています。

三男だけを浦賀に残し、父子で壮絶な戦死をしているのです…悲しい

  中島三郎助の最期

明治2年(1869)の箱館戦争も終盤に差し掛かり、5月11日の新政府軍による箱館総攻撃で土方歳三が戦死を遂げます。

しかし、なおも中島三郎助らは千代ケ崎台場に籠り、徹底抗戦の構えを見せます。

12日、新政府軍は、五稜郭など幕府陣地に艦砲射撃を浴びせ、一方で終戦調停を開始します。

15日、孤立する弁天台場では箱館奉行の永井尚志(なおゆき)が降伏を決します。

それでも三郎助ら千代ケ崎砲台は降伏勧告を拒絶

さらには五稜郭からの退去勧告を拒否し、16日からの総攻撃に徹底抗戦。

守備兵は土塁の中から大小砲を持って迎撃します。

やがて、激しい白兵戦が展開され、三郎助は子供らとともに戦死します悲しい

これにより、箱館戦争における戦闘は終結、18日に五稜郭が開城、箱館戦争ひいては1年以上に及んだ戊辰戦争はここに終結しました。

形勢不利、死ぬとわかっていても最後まで「勝つために」戦い続けた姿、現代にのほほんとして生きてきた私にはできない芸当です。

土方歳三も中島三郎助も、決して未来が見えていない人ではありません。

むしろ逆でしょう。彼らは新しい世が来ることを見抜いていたはず。

しかし、この世には変わらないもの、不変なものがあるのだと思います。

土方も中島も、その不変さを貫いて散った

予を生きるのに聡く、身代わりがうまい人が結局は勝ち組なのでしょうけど。

それは昔も今も変わらないでしょうけどキョロキョロ

 

土方も中島も戦い続けた箱館戦争の舞台となった五稜郭へ、次は向かいます。

続きます。

 

(日時指定投稿です)