先日、主宰するコミュ(仮称)歴史散歩サークルではなく、別の散歩仲間の中で散歩主催をしてまいりました。

場所は横須賀の浦賀。

浦賀周辺の史跡と、それに併せて東京湾要塞跡である「千代ケ崎砲台跡」を見学した後。

燈明堂から浦賀の町歩きをしました。

今日は、浦賀ドック中島三郎助について話します。

 

散歩の最後は浦賀ドックの説明でした。

実は、東叶神社を見た後、本当でしたらもっと多くの寺社を見て回る予定でした。

しかし、この時点ですでに17時前になっており、さすがにこれ以上じっくり見ると時間がかかりすぎるため断念💦

バスで浦賀駅まで行き、そこで浦賀ドックの話をしましたおねがい

  浦賀ドック

明治になり、渋沢栄一らによって造船所設営計画が持ち上がるものの断念します。

その後、明治24年(1891)中島三郎助23回忌に当たり、旧船番所裏手の愛宕山に招魂碑が建てられますが、その除幕式の席で、かつて箱館戦争の時の同志であった荒井郁之助(箱館での海軍奉行)が「中島三郎助のために浦賀に造船所を作ってみてはどうか」と提唱し、榎本武揚が即座に賛成して地元の有力者に働きかけ、鳳凰丸建造から約40年後の明治29年に浦賀船渠株式会社が創設されました。これが浦賀ドックの始まりです。

中島三郎助の業績を考えるとき、造船所を作ることこそが三郎助の菩提を弔う一番の供養になると考えたからだと言われます。現在の社名「住友重機械工業株式会社」は、昭和44年(1969)6月に合併してからのものです。

はい、私が実は最後に話したいのは。

この浦賀ドックを作るきっかけとなった人物である中島三郎助についてです。

中島三郎助こそ、幕末横須賀史を語るうえでは、小栗上野介とともに欠かせない人物であります。

  中島三郎助

嘉永6年(1853)、ペリー率いる黒船が浦賀(久里浜)に来航しました。その際に最初に黒船に乗り込んだ日本人こそが、浦賀奉行所与力・中島三郎助でした。

三郎助は文政4年(1821)浦賀奉行所与力・中島清司の次男として生まれました。14歳の時、与力見習いとして奉行所に出仕し、以来、終生浦賀の民政・治安・町の開発のために尽力します。

ペリー来航の際、三郎助は日本の直面した危機の中でこれからの国の在り方を見据え、幕府のとるべき方針を進言し、さらに軍艦の建造や砲台の築造に従事するなど、一与力に過ぎない身分でありながら重要な国務に携わっていました。また、ペリー来航の際に黒船に乗り込んだ時、折衝の任にあたりながら艦内を見回った様子は「ペリー日本遠征記」の中で次のように語られております。

「詮索好きで好感の持てない人物」びっくり

これは、ペリーサイドがいかに中島の態度と力量を恐れて嫌悪していたかの証明です。

よく、幕府側はペリー黒船側に対して腰が引けていたなどと言われますが、幕府側はあらかじめペリー来航を予測しています。

その予測に基づき、浦賀奉行所側は毅然とした態度をとって対応しました。中島もその基本線に沿って対応しています。

この行動は、翌嘉永7年日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」建造に大きく役に立ちます。

三郎助は早くから洋式船の必要性を十分に感じ取っていました。

安政2年(1855)には、勝海舟・榎本武揚らとともに、長崎の海軍伝習所へ派遣され海軍士官としての修業と造船術を学び、安政5年(1858)5月江戸に戻り、海軍操練所教授方として後輩の指導に当たります。また、咸臨丸の修理を行うなど、まさに海国日本の造船・操船の第一人者としての礎を築いていきます。武士としても剣術・槍術に関しても諸流の免許皆伝、大筒鋳造、砲台建設に至る専門的な技術をも身に付けていました。

 

慶応4年(1868)幕府は大政奉還を行い、それとともに150年の歴史を持った浦賀奉行所も廃止され、与力、同心たちも離職しました。三郎助は幕臣として、主家徳川家の為に命を投げ出すことを決意し、明治元年(1868)11月、長男恒太郎、二男英次郎及び腹心の同志や榎本武揚らとともに江戸を脱出し、箱館五稜郭に籠って新政府軍を迎え撃ちます。しかし、武運拙く敗れ、二人の子共々、千代ヶ岡で壮絶な戦死を遂げます。享年49。箱館における壮絶な戦死と言えば土方歳三を思い浮かべますが、中島三郎助父子の奮戦も印象的です。

 

三郎助の最期ははじめから強い意志のもとの事であり、彼の決心は揺るぎのないものでした。それほど三郎助という人は武士としても、人間としても忠義一途な人物でした。また、三郎助は文人としても和漢の学に造詣が深く、和歌・俳諧・漢詩文などをたしなみ、俳人としては当時の浦賀のみならず江戸俳諧においても俳人「木けい」として知られていました。

 ほととぎす われも血を吐く 思ひ哉

上記の俳句は、旧幕府軍追討令が新政府軍より下されたことを知った三郎助が詠んだ句です。

 

中島三郎助、まだ著名では決してありませんが。

彼の存在はもっと知ってほしい。

横須賀に住んでいる私とっては、決して語らずにいられない傑物だと思います。

 

この中島の話をもって、浦賀散歩の話を終えます。

もっと詳細に色々見て回りたかったのですが、時間が足りずに断念。

いずれ(仮称)歴史散歩サークルでももっと時間を費やしてイベントを実施したいと思います。

(日時指定投稿です)