去る5月11日(土)、私が主宰する(仮称)歴史散歩サークルにおいて、「京急富岡~シーサイドライン沿線散歩」を開催してまいりました。

 

 

京急富岡駅集合でした。

この京急富岡駅というのは、以下のような歴史があります。

昭和5年(1930)4月、当時は湘南電気鉄道(現京急)が黄金町駅―浦賀駅を開業させた際、夏期のみ海水浴専門仮駅の「湘南富岡駅」として開業し、翌1931年に正式な駅に昇格します。この駅は太平洋戦争末期の1945年6月10日の米軍機による海軍横浜航空隊基地や大日本兵器工場の社宅を狙った空襲により破壊され営業休止となり、1947年1月、東急(当時は東急が経営)この駅をいったん廃止としました。

しかし、同年3月には元の位置から杉田方面に約900ⅿ付近に再び湘南富岡駅が開業しました。ただ当時は、GHQの施設関係者専用駅とされ、一般客は利用できませんでした。翌48年、一般客の利用も可能となります。

1955年、京急の宅地開発に伴って戦前と同じ位置に移転し、1963年京浜富岡駅、1987年には京急富岡駅に改称しました。

 

この地横浜市金沢区富岡は、その名の由来が「十三丘」から来ているといわれるほど、小高い丘が連なっています。昭和40年代から始まった埋め立て(横浜市六大事業の一環として金沢地先埋立工事)以前のこの付近は、美しい海岸線が続く風光明媚な地域として知られていました。明治維新後は、そのような風景に魅せられた文化人や財界人が別荘を建てるなどして、富岡の地に足跡を残しています。

明治10~20年頃にかけては、多くの政界人が競うようにして富岡に別荘を建てました。「夏は富岡で閣議が開ける」と言われたほどでした。井上薫、三条実美、松方正義、大鳥圭介、佐藤繁二郎らが別荘を構えたといいます。

散歩の最初は富岡八幡宮へ。

  富岡八幡宮

源頼朝が鎌倉に幕府を開くにあたって、1191年兵庫の西宮神社から蛭子尊を勧請し、富岡の鎮守としたと伝えられる古い創建の神社です。1227年に八幡大神を併せ祀り、社名を八幡宮と改めます。1311年の大津波の際に、全く被害を受けなかった富岡村の人々は、八幡宮の加護によると考えてより信仰を篤くしたといわれます。以来、「波除八幡」と呼ばれるようになったといいます。

富岡が埋め立てられる前は、富岡八幡宮がある八幡山の周りは海で、富岡海岸は海水浴場としても有名でした。現在、富岡八幡宮の入口付近に「金波楼跡」の碑があります。地元の人々が出資して、1885年に日本初の株式会社組織の割烹旅館として誕生しました。木造2階建てで、海水を引いたいけすの魚を出す料理が評判になったといいます。

富岡八幡秋季大祭は9月下旬の週末に行われます。この祭りは、秋の収穫にさらなる収穫を期するもの。生き物に限らず色々な恩恵を受けて得た収穫を神に感謝し、さらなる後利益を祈るものです。

大祭の前夜に行われるのが賓宮祭です。大祓の神事で詔を奏上して、二座の神楽を奉納します。その後、富岡七ヶ町の万灯神輿が神社を出発、町内を渡卸します。

大祭当日は、大神輿が京急富岡駅前に集合し、盛大な連合渡卸が行われます。富岡八幡宮では「湯立神楽」の奉納が行われます。

7月上旬に行われる「祇園舟」は、800年以上にわたり継承されている特殊神事で、横浜市無形文化財第一号にも指定されています。 

富岡八幡宮と並木の船だまりでの神事の後、2艘の和舟が潮の良い沖まで行き、茅舟に1年分の罪穢れを託して沖合遠くへと流します。クライマックスは2艘の木造和船の競漕です。流した罪穢れからいち早く逃れるため、力を尽くして舟を漕ぎます。

続いて、こちらの石碑を。

ここに、松方正義の邸宅がありました。

そして、この邸宅が次の石碑に大きく関係してきます。

  孫文上陸記念碑

岸信介元首相揮毫(岸は安倍晋三元首相の祖父)で建てられております。

近代中国建国の最大の功労者とされる孫文は、辛亥革命後、政敵であった袁世凱に追われ、1913年横浜沖から小舟で富岡海岸に上陸しました。上陸地点は不明ですが、松方正義の三男・幸次郎が神戸で孫文を匿っていたことから、松方別荘の船着き場とする説や地形からマキ海岸(富岡八幡宮の西岸)が最適地だとする説があります。

つまり、松方別荘が近くにあったため、この地に立ち寄ったのではないかと推察されます。その後孫文は東京へたどり着きました。

中国近代化の歴史ともかかわる歴史を、この富岡の地は持っていたと言えます。

そして、こちらのお寺さんへ。

  

  慶珊寺

富岡の領主であった豊島明重が、父母の菩提を弔うため寛永元年(1624)に建立した寺です。真言宗御室派の寺院となります。

豊島氏と言えば、中世は武蔵国に一大勢力を張った豪族ですが、太田道灌との戦いに敗れ、400年以上支配した所領のすべてを失い没落していました。

後北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入国してから、豊島氏に再び日の当たる時が訪れます。文禄3年(1594)、豊島明重は家康から召し出され旗本に列せられ、戦死した父頼重の戦功もあって、富岡郷に1700石の領地を賜ります。

明重は慶珊寺を建立すると同時に、領内の繁栄を願って富岡八幡宮の社殿を造営するなど領民から篤い信望を得ていました。

しかし、寛永5年(1628)明重は江戸城内で老中・井上主計頭を殺害してしまいます。これは、老中井上家の長男と、大坂町奉行の島田家の縁談の仲人の労を、明重がとったのですが、婚儀の日が近づいたときに、井上家側から今回の縁談をなかったことにすると一方的に破談を申し入れたため、(井上家では山形の22万石の大名鳥居家の娘を迎える話に飛びついた)、面目丸つぶれの明重は、武士にあるまじき二枚舌の井上に対して激昂し、井上を切り伏せてしまうのです。井上も、殺害した明重も自刃し果てます。その4日後、息子の頼継も父の殿中刃傷の罪に連座し切腹。ここに名門豊島家は断絶となり、富岡の領地は没収されます。明重の姉が建てた明重父子の供養塔が裏山の墓地にあります。

この刃傷事件は、稲葉岩見守が大老堀田筑前守を殺害した事件、元禄14年(1701)の浅野内匠頭が吉良上野介に斬り付けた松の廊下事件と併せて「江戸城三大刃傷事件」と言われた中で、最初の事件でした。

なお、ヘボン式ローマ字で知られるヘボン博士は、富岡を訪れた際は慶珊寺に泊まっていたといわれます

 

松の枝ぶりが見事でした。

参加者の一人がおっしゃっておりましたが、この松の枝ぶりは関東ではなかなかお目にかかれず、京風ではないかと思われるらしいです。

そして、ここから次は長昌寺へ。

  長昌寺

天正2年(1574)、後北条氏の家臣で富岡を領した柳下豊後守が亡き妻(法名「桂窓長昌大姉」)の菩提を弔う為、長昌庵を創建し、鎌倉禅興寺(明月院)から仙渓僧才禅師を招いて当山の開山となりました。

後北条氏滅亡後、柳下豊後守は安房方面から来襲した里見水軍と戦い、槍で重傷を負いながらも里見軍を打ち破りました。槍傷によって豊後守は亡くなりましたが、豊後守が離さなかった槍先は柳下家に現存しているそうです。なお、里見軍は撤退する際に、当時の長昌庵の本尊「阿弥陀如来立像」を持ち去りましたが、里見軍と村民に不幸が続いたため、阿弥陀如来の祟りとして如来像を返してきたと言われています。その阿弥陀如来立像は現在も長昌寺本堂に現存しています。

境内の観音堂には「芋観音」と称される「楊柳観音」が祀られています。人々に最も恐れられた疱瘡の守り神として、古くから篤い信仰を篤めていました。この観音様は、元は富岡北の鳥見塚にあったが、昭和11年に横浜海軍航空隊が開設されたとき、別当寺であった長昌寺に移されたといいます。

この芋観音は、江戸時代から崇敬されており、江戸からも多くの参詣者が訪れ、疱瘡の快癒を祈っていたといわれます。現在も、芋観音御開帳日に当たる3月上旬にはご利益を求め多くの人が訪れます。

また、長昌寺には小説家・直木三十五の墓があります。

直木三十五について話します。

  直木三十五

昭和8年の春、人気作家であった直木三十五が富岡を訪れました。美しい海のある風光に魅せられた直木は、慶珊寺の裏山に土地を借りて家を建て、その年の12月に東京から移り住みました。だが、運命は非情でした。明けた9年の正月に持病が悪化し、2月初め東大病院に入院。同月24日には、結核性脳膜炎のため、わずか43年の生涯を閉じます。

直木は天才作家と言われた一方で、稀代の浪費家でもあり、銭湯に行く金もないのにオープンカーを乗り回したり、出版事業に失敗し金に窮しても生活を切り詰めることは一切なかったといいます。着る物は勿論、好みの柾目の下駄まで、いつも上物を老舗から届けさせていたといいます。

直木は大阪生まれ。上京して早大英文科予科に入学するが、学費の滞納で退学させられます。ところが卒業の記念写真にはちゃっかりと頭を突っ込み、その写真を父親に送って安心させたという有名な話もあります。

直紀の本名は「植村宗一」です。植村姓の「植」の字を縦割りにして「直木」とし、当時の年齢31歳をとって、「直木三十一」とペンネームに使います。その後年齢を重ねるごとに改名し、結局三十五で定着します。

はじめの頃は「文芸春秋」に文壇ゴシップなどを書いて評判を呼びますが、のちに文筆に専念し仇討ちものを手始めに次々と時代小説を発表します。代表作となった「南国太平記」は、薩摩藩のお家騒動をテーマにした新聞小説で、昭和5~6年にかけて連載し、文壇に揺ぎ無い地位を築きます。

作家としての名声に隠れてはいますが、京都で映画製作に乗り出したり、出版社を創設したり、様々な事業を手掛けます。いずれも失敗してしまいますが…。

直木の没後、文芸春秋の社主であり直木の親友であった菊池寛は、直木の大衆文学における業績を記念して直木賞を設けます。新人作家の登竜門として、今なお日本文壇に輝かしい歴史を重ねています。

昭和58年以来、南国忌の会によって直樹の追悼忌「南国忌」が営まれています。毎年、命日の2月24日前後の日曜日に、長昌寺に100人近い文学ファンが参集。法要後は、直木賞受賞作家などによる講演会と、直木を偲んでの懇親会が恒例となっています。

直木の墓は当初は慶珊寺にありましたが、「海の見える禅寺に葬ってほしい」という生前の意思に沿って、戦後に長昌寺境内の小高い山上に移されます。しかし、この地もがけ崩れの恐れがあったため、本堂裏の現在地に移されました。すぐ隣には、直木に心酔していた直木賞作家・胡桃沢耕史の墓が並んで立ってます。

さて、この後は買い食いする時間が増えます。

歴史散歩はこの辺りで終了。(笑)

 

南部市場で、私もこのようなものを(・∀・)ニヤニヤ

さらに、シャトレーゼで馬鹿買い、じゃなくって爆買いします( ゚Д゚)

 

そして、シーサイドラインに乗り産業振興センターで下車し…。

文明堂などのお菓子の直販売店に立ち寄ります!

 

この後は、八景島シーパラダイスへ。

 

ここでしばしば見学します。

 

 

打ち上げは、バイキングです。

終了後は、夕焼けを見ながら歩いて帰ります🌇

富士山が遠くに見える絶好のロケーションですね。

非常に良い散歩日和でした。

ただ、日中は暑く寒暖差があり、風も強かったことから、体調を崩される方も。

なかなかコンディション作りが難しい陽気でした。

 

それでも、こういう散歩ができることに感謝です。

前半は歴史散歩、後半は緩い買い食いと見学散歩。

こういうコースで散歩できれば一番いいかなって思いました。

参加された皆様、誠にありがとうございました。

またよろしくお願いいたします!

(日時指定投稿です)