先月になってしまいますが…(去年だろ?)(-_-;)

2023年12月16日に開催した「日比谷公園を歩こう」オフのレポートを行います。

 

 

 

定員22名で行うつもりでしたが…。

何と31名の方の参加がありました!

非常に盛況でしたので、私も今回はいつも以上に力が入った散歩イベントとなりました♪

 

主なコースは以下の通りです。

日比谷駅A10入り口付近~有楽門~日比谷見付跡~伊達政宗終焉の地~心字池~第一花壇~フェリーチェガーデン(旧日比谷公園事務所)~三笠山~自由の鐘~水飲みとアーク灯~小音楽堂~大噴水~松本楼~首賭けイチョウ~雲形池~霞門~大音楽堂~日比谷図書文化館~かもめの広場~日比谷公会堂~日比谷花壇~日比谷門~JR有楽町駅終了

 

今回は、1⃣「江戸城址を工夫したつくり」です。

日比谷見付周辺までを紹介します。

 

まずは、日比谷駅近くの有楽門からスタート。

早速池が見えます。

この池は「心字池」となります。

  心字池

日比谷見付の石垣や堀とその上の大ケヤキをそのまま生かし、内側に蓮池を偲ぶために作られました。
大ケヤキは昭和44年に枯れてしまい、現在は枯株のみが残ります。現在は亀の噴水がありますが、当時は沢潟と鷲鳥の噴水があったといいます。

 

日比谷公園が、石垣や堀を残した形で作られたのは、この方の影響です。

本多静六博士です。

日本の林学者で、造園家。株式投資も行うマルチな才能を発揮されましたが。

日本の「公園の父」といわれるほど、日比谷公園を皮切りに、北海道の大沼公園や、明治神宮、福岡県の大濠公園など、数多くの公園の造園に寄与しています。

 

その本多博士が、「和洋折衷」「ドイツ式庭園と日本の美を生かした公園づくり」のコンセプトで、次に紹介する「日比谷見附」址の石垣や堀を生かして、日比谷公園を作ったということです。

 

その、日比谷見付跡の石垣です。

 

この日比谷見付は、江戸城の一部です。

高麗門や枡形、櫓、番所などを構えていました。

 

そして、この近くには・・・。

伊達政宗の終焉の地。

 

  伊達政宗終焉の地

伊達政宗は、慶長6年(1601)に徳川家康より江戸屋敷を与えられました、それが外桜田上屋敷です。伊達家はそれから約60年間ほど、この地に上屋敷があったようです。おそらく伊達騒動(お家騒動)の時期頃までで、その影響で屋敷が移転したかどうかは不明です。
政宗の時代には、家康が3度、秀忠と家光がそれぞれ4度ほどここを訪れ、もてなしを受けたことが記録に残っております。

政宗は、寛永13年(1636)5月、仙台からこの地にやってきて70年の生涯を閉じました。

 

伊達政宗は、寛永11年(1634年)頃から食欲不振や嚥下に難を抱えるといった体調不良を訴え始めていました。それでも政宗は病を押して、寛永13年(1636年)の4月20日に参勤交代に出発します。
しかし政宗は急に病状を悪化させ、宿泊した郡山では嚥下困難に嘔吐が伴い何も食べられなくなっていたほどでした。
4月28日に江戸に入った頃には絶食状態が続いたうえ、腹に腫れが生じていたそうです。病を押して参府した政宗に三代将軍徳川家光は、5月21日に伊達家上屋敷に赴き政宗を見舞っっています。これに応じて政宗は行水して身を整え、家光を迎えたのです。しかしお目見え後に奥へ戻る時には杖を頼りに何度も休みながら進まざるをえなかったそうです。
そして3日後の5月24日卯の刻(午前6時)に死去。享年70(満68歳没)。死因は食道噴門癌による癌性腹膜炎であるとされています。

辞世の句は、「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」

政宗が死病を押して江戸へ参府したのは、やはり徳川将軍家への忠義を見せるためだと思われます。
外様藩第3位(加賀前田、薩摩島津に次ぐ)62万石の大藩だった伊達家は、関ヶ原合戦時に東軍として徳川家康についたとはいえ、危険視される存在でした。その目を少しでもそらすための、いわば生き残りをかけた政宗の労苦は、その生涯の最期まで続いたのではないでしょうか。

 

続きます。

(日時指定投稿です)