11月3日から6日まで、いささか長旅をしてきました。
今回は、京都の北部である舞鶴や天橋立、福知山などを巡り。
最後には、関ケ原の古戦場を見て帰りました。
京都の北部へは初めて足を延ばしましたが、太平洋側にはなかなかお目にかかれない穏やかな海の風景があり、時がゆっくりと流れるような雰囲気が味わえました。
まずは舞鶴へ足を延ばします。
もともとは軍港だったこの地。
その印象が強いですが、この土地は西舞鶴と東舞鶴の二つに分かれています。
まずは、西舞鶴へ。
京都から特急で約1時間半ほどかかります。
丹波~丹後の穏やかな風景を眺めつつ・・・・。
西舞鶴は城下町です。
戦国時代に細川氏が丹後に所領を持ち、この舞鶴の田辺城を根拠地にしています。
その田辺城跡です。
細川幽斎という名前が見えます。
明智光秀らとともに、幕臣として足利将軍を奉じて活動しておりました。
その後、織田信長の部将として活躍しますが、本能寺の変においては、盟友の明智光秀の味方をせず、息子の忠興とともに、髻を切って信長の弔いをします。
秀吉政権時代には丹後の大名として君臨しますが、幽斎は忠興に家督を譲り、彼の持ち味の文才を活かしながら活躍します。
短歌や文芸に造詣が深く、古今和歌集の秘事口伝「古今伝授」の伝承者だったのです。
1600年の関ケ原の合戦時には、周囲が敵だらけの状態にありながら、東軍の徳川方に属します。
石田三成方(西軍)が1万5千の大軍でこの田辺城を猛攻しますが、幽斎はわずか500人程度で立て籠り、52日間にわたって必死に防戦します。
結局、開城することにはなりますが、幽斎が「古今伝授」の伝承者であったことから、彼を死なせてはならないと、後陽成天皇が勅命によって停戦させたのです。
田辺籠城に釘付けになった西軍1万5千は、結果的に関ケ原の本戦に間に合わず、それが東軍勝利に大きく寄与したともいわれます。
その田辺城から海側に足を延ばします。
吉原入江という場所に差し掛かります。
古き良き、かつての日本という雰囲気がとても漂います♪
吉原入江
本当に穏やかな眺めですよね。日本海側ってこういう湊が残っています。
太平洋側にはなかなかお目にかかれない風景です。
吉原入江を後にして、昼食を。
なんと、舞鶴に来たのにもかかわらず家系ラーメンを食べてしまうとは!( ;∀;)
横浜家系ラーメン「幸村家」です。なぜ幸村なのかは不明ですが(・_・;)
スープはドロッとしており、麺は太麺でコシがある。
スープの味はまあまあかな。もう少しコクが欲しいところです。
卵がでかい!
さて、城の外輪部にあたる場所には、やはりお寺が多いです。
西舞鶴を後にし、東舞鶴へ向かいます。
(続く)
(日時指定投稿です)