1月12日、全生園とハンセン病資料館訪問の記録、後編です。
ハンセン病資料館の背後には、広大な全生園の敷地が拡がります。
広大な敷地の中に、患者さんたちが住んでいる寮が点在します。
当たり前のことですが、当然現在も園内で生活・居住していらっしゃる方がおります。
なので、その方たちの生活の状態などは絶対に撮影してはいけません。もちろん、わたしもしておりません。
そのうえで、全生園内の施設をいくつか紹介します。
「永代神社」
「収容門跡」
患者にとっては、この門は自由が遮断された境目だったと思う。
「山吹」という名が見えるこの宿舎、かつて患者が住まわれていたものでしょう。
個室などなく、プライベートな空間などは望むべくもなかったようです。
このあたりは宗教的空間。
キリスト、仏教の各施設がありました。
「全正学園跡」
学生年齢に相当する患者は、この学校にはいる事しかできませんでした。
「築山」
展望台の役目をはたしてました。
ここから、遠く外の世界が見えるため、多くの患者はここで涙していたという。
思うのですが、人間って時に残酷なことをします。
その多くは、根っからの悪ではなく、相手が憎いとか嫌いとかを、根本から持っていた人ではないと思います。
ですが、人間は面倒なことはなるべく避けたがる動物です。いや、それが動物が生きる本能なのかもしれませんが。
つまり、当時は不治の病といわれていたらい病(ハンセン病)の患者は、治る見込みがないため、手の施しようがかったのでしょう。であるがゆえに、昔の人々は患者を避け、こういった隔離という手段に出たのでしょう。
最近、相模原の聾唖施設の大量殺傷事件の裁判が開かれましたが。
被告人は、「人の世に役に立たないから殺した」という趣旨の発言をしております。いわゆるナチスとかの優越思想でしょうか。
これって、今の日本にはびこる「無能はいらない」的な考え方に通じるような気が。
つまり、世の中に役に立つ人物だけで日本を生きていこう、そんな風潮に感じるような気が・・・考えすぎなのか。
安倍政権がそんな政権に思えて仕方ないのですが、それはさておき。
自分にとって面倒なことは排除したい、これは私の中にもあります。
私自身、非常に人を差別し、好き嫌いが激しい部分があります。
聖人君子ではありません。でも、だからこそ、己の中の「ヘイト」を認め、それを克服していく必要があるのではないでしょうか。
そのためには、一人の時間を大切にすること。そして人の中にいるときは、理屈、道理だけでない社交力が求められるのではないか。
全生園に訪れた意義は、自身が後半生生きていくうえで、様々な人がいる、そして世間は正義だけでは渡れない、理不尽な扱いも起こる。そのことを強く認識しつつ、どう生きていこうとするのか。
社会的に弱い人たちへの偏見をなくすためには、人は生きていくだけで充分なんだ。役に立つ立たない、有能無能なんて考え方より、生きているだけで一人以上の人の役に立っているんではないかと。そういった思いを強くすることが大事なのかなって思いました。
私は視野が狭い男です。
なので、さらに人への偏見をなくし、よく接したい。
今回の全生園への来訪は、そんなことも考えなくてはいけないという気持ちと同時に。
歴史上表に出てこない方たちへも目線をあわせ、本当の歴史を知ることが大事なんだということを意識させられたものだったと思います。