8世紀になると、アラブ商人がインドの西海岸に植民地を建設し、中央アジアからはイスラム教徒の戦士たちがインド北東部に侵入するようになります。当初は富の略奪を目的としていたが、そのうち留まって土地を支配するようになります。
13世紀中頃までに、ガンジス谷は、現代のデリー近くに首都を定めたイスラム教スルタン国の一部となります。それから300年以上にわたり、トルコ系、アフガニスタン系、中央アジアの王朝が次々とインドの広域を支配し、豪奢な宮廷を立てると、イスラム世界中の学者や宗教的指導者が引き寄せられるようになります。
これらの移民がもたらした食材や料理は、紛らわしいことに「ムガル」と呼ばれています。ペルシアからはバラ水とサフラン、アフガニスタンと中央アジアからはアーモンド、ピスタチオ、干しブドウ、ドライフルーツ、中東からはお菓子とペストリーがもたらされました。
彼らが運び込んだ料理にはほかにも、シャーベットと甘い飲み物、プラオとビリヤニ(米と肉を材料とする手の込んだ料理)、サモサ(肉または野菜を小麦粉の生地で包んで油で揚げた料理)、何十種もバリエーションがあるカボプ(串焼き焼肉、ケバブ?)、ヤクニ(白い肉入りスープ)、ドピアザ(玉ねぎと肉の煮込み料理)、コルマ(ヨーグルトでマリネした肉を弱火で煮込んだ料理)、キチュリ(米とレンズ豆のお粥)、ジャレビー(小麦粉と米粉の生地を油で揚げて砂糖シロップに付け込んだお菓子)、そしてナンとそのほかのパンがあります。
これらの料理の多くにはペルシア語の名前があります。ペルシア語は19世紀まで北インドの公用語でした。ある作家曰く、「イスラム教徒は、少々禁欲的な雰囲気があったヒンズー教徒の食卓に、公私を問わず、どのような食事の場にも洗練された優美な作法が大切であることを教えた。イスラム教徒は、インドの食の形式にも内容にも影響を与えた」のです。
これに伴い、地元の料理人たちは、自分たちのスパイスを付け加えることで、ペルシア=インド料理という新しい多国籍料理を創造したのです。(続く)