浪人して、センターが現役時から100点下がったので、国立は諦めていた。なぜB日程で弘前大学農学部に出願したか、もう覚えていない。

1991年3月2日、大分駅を午前6時47分に出て「青春18きっぷ」つまり各駅停車だけで38時間かけて、弘前の5つ手前の「碇ヶ関(いかりがせき)」に着いて、歩いて5分の「かんぽの宿」に着いた。

3月4日、ホテルで朝食を取りながら作戦を練った。

弘前大学は当時、大学内で入試を行わず、学部ごとに市内の県立高校を試験場にしていた。よって「試験場の下見」と「合格したら通うことになるキャンバスの見学」は別にしなければならなかった。

スマホのない時代、「募集要項」を見ながら、雪の弘前を歩きまくった。

ある時、電器店に大きなUHFアンテナがトラックに積まれていた。店長に聞くと「秋田テレビ(弘前辺りでフジを見るなら、この方法しかない)を見たいというお客様がいて、映らなくても店は責任を取らない条件で発注した」という。

ああ疲れた。