では日本人は、どのようにして、人間のもつ「我執」に対処したかと言うと、人間が「我執」から離れようとする"心の働き"そのものを、最大限に評価し合い、その"心の働き"を信じ合って、なまの人間だけで、人間そのものの、ありのままの姿において、"心"の中に大きな「振幅」を樹立したのである。日本人が古代から今日にいたるまで、何よりも大切にしてきた言葉に"まごころ"という一語があるが、この言葉の意味するところは、実は「我執」から離れようと努力するその"心の働き"に対して名づけられたものであり、その"心の働き"によって発露する美しい「私情」「没我の精神」「公に役立つ喜び」「殉国の精神」のすべてに、"まごころ"が発揚しうるものと考えた。

すでにこの世を去っていった人びとに対しても、その人びとがこの世に在りし日々に見せてくれたその"まごころ"の発露を、いつまでも感銘深く心に宿し、在りし日々のその"まごころ"を、死して後も敬い崇める習慣が生まれていった。そしてそこに日本人の考える「神」が生まれるのである。
 かくて、日本人は、"まごころ"を大切にしたことから、いつしか「宗教的情操」と呼ばれる"敬虔な心"をお互いに持ち合うことどなり、亡き人びとと生きている人びととのあいだに、"心を"往き来させることがありうる、とする「神人交通の思想」が生まれるのである。

小田村寅二郎『日本思想の源流:ー歴代天皇を中心にー』Kindle版、国民文化研究会
(本文からの抜き書きと、本掲示のタイトル付けは伊勢雅臣が行っています)