桜町天皇は、大変聡明な方で、後陽成院、後水尾院、霊元院の御三方が、幕府創設以来、朝廷を必死の思いで守り続けられた御志を、青年天皇として堅く御心に期して皇位にあられた方であった。
天皇は、御父君・中御門院と御死別なされて四年後、御年二十一歳の折、元文五年(一七四〇)に、朝廷においてそれまで二百八十年来、やむなく廃絶せられていた「新嘗祭」を、青年天皇の御意志に立って断乎、復活せられたのである。
ちなみに、二代前の東山天皇は、霊元院の院政のもとで、これまた久しく中絶されたままになっていた「立太子礼」と「大嘗祭―天皇即位後に、最初の新殻を天照大神をはじめ諸祖神に供え、同時に天皇も召しあがるという天皇御親祭をいう――」を復活せられ、
江戸時代の天皇がたが長期的視点をおふまえになられて、古来からの諸儀式の復活に御心を労せられたことは、思想史上から見ても重要な意義をもつ御努力であったと思う。
つぎの桃園天皇(御年七歳で即位)も御父君に劣らず大変聡明な方であられたが、この御代になると、ようやく国内のあちこちに、幕府の専横に対する批判があらわれ、わが国の大義名分を明らかにしようとする動きが改めて拾頭しはじめた。天皇の御年十八歳の宝暦八年(一七五八)、竹内式部らの「宝暦事件」が起きたのも、その一つの現われであった。
この事件は、京都の朝廷の尊皇論者が、江戸幕府によって処罰された最初の事件であった。
明和三年(一七六六)に「明和事件」が起き、勤皇学者の山県大弐・藤井右門らを、幕府に対する謀叛人として処刑してしまい、また、さきの竹内式部にも、それに関係しているとして八丈島に流罪に処した〔竹内式部は、護送の途中、三宅島で病死〕。とにかく幕府の方針は、尊皇学者を根こそぎに退治することにあったようである。
五 江戸時代後半期における御二方の青年天皇とその御歌
小田村寅二郎『日本思想の源流:ー歴代天皇を中心にー』Kindle版、国民文化研究会
(本文からの抜き書きと、本掲示のタイトル付けは伊勢雅臣が行っています)