本日の弁当は、
冷凍していたひき肉玉ねぎ炒めに
ケチャップやらカレースパイスやら、
余ったマッシュルームやピーマンを加えたものに玉子2個分のオムレツを乗っけた。



やっぱり玉子2つは多いな。
1つで十分だった。



清原選手の元嫁でもあり
高校球児の腹を満たす亜希さんの作る
「ふたはのせるだけ」弁当が話題だが、
のっかったつもりなくのせてしまった。
(モデル時代から好きだった)



    

やりたいと言ったことには一切反対せず、ただただ温かく見守ってくれた人。
「ここには何も無いから、亜希の好きなようにしなさい」と背中を押してくれました。(中略)いつも自分のことは後回し。だからこそ、私が頑張って知らない景色を見せてあげたい、と思っていたし、“お母さんのために生きよう”という気持ちを小さい頃から持ち続けていたんだと思います。 


FRAUより引用




やっぱり
素敵で前向きで、ひたむきにがんばる母親のおかあさんも
素敵な方だと思う。


いつも自分中心で、飯はクソマズい
娘を虐めて喜んでたうちの糞親とはえらい違いだ。


それは置いといても、
蓋はのせるだけとしても、
手元がくるったのも仕方なく?
実は今週は月曜以降、テスト週間で
弁当がなかった。



いや、マジで
それを月曜日の夜に言われた日には
早めにおしえてくれよ、となる。
こちらとしては段取りと賞味期限がある。



明日は?
と聞くとわからん、と言われ
高校のホームページをみても、それっぽい情報もなく。
追加の情報を待っては
結局、明日は無いけど明後日はあるらしい、
いや、明後日もなくていい
いや、今週1週間なくて大丈夫、となった。


そのあと、部活あるから
やっぱりいる、とな。
もう、わけがワカラナイ。



高校に入って初めてのテスト週間だったこともあり、情報が錯綜したままの週末。



なんや、漬け玉子たくさん漬ける必要なかったんかい!と突っ込みたくもなったが
しんどいときに弁当なくて良かったやん、漬け玉子は夕飯で食べるやん、と笑顔で言われてしまう始末。




…まあ、いい。たしかに。



 
それというのも、やっと手元にきたパソコンで、
せっせと描いたキャラクターを
息子と旦那に見せると、
口々に天才やん、さすがやん!などのお褒めの言葉をいただいた。
(デビューを果たしたら公開したいと思う。まだ地下アイドルの修行中みたいなものだ)



その際息子に



「僕が、16年生きてみてきた中でお母さんが苦手ことはないと言いきるわ」


など、のたまう。
!?かなり驚いて


「コミュニケーション苦手やで。いろいろ苦手やで」



と言うが

 

「生っぽい、鶏の皮(鶏の皮もパリッと焼けていたら食うよ)と女の人との会話とそれ以外ないやん」



と笑われてしまった。  
子どもにはそう見えているのか…
まったくそう見せたつもりはないがゆえに
ただただ謎だ。


仕事がいくら出来ても
思えばいつも
女性絡みのトラブルが多い。
(芸能人みたいだ)


PTAだけでなく、
保育園を退園させられたこともあった。
だいたい被害者と加害者が
女性特有の正義感で知らぬ間にひっくり返り
「悪者は叩く」と善人ほどスッキリするらしく
だいたい悪者として排除される。
家族でも頭おかしいと一人虐められたが、
おそらくその影響もあるのだろう。

割れた窓に、ポイ捨てされたゴミが溜まり犯罪になる、みたいな。
親に虐められた人間は、「こいつは虐めてもいい人間」とジャッジされやすいツラ構えにでもなるんだろう。


親に愛された人間はだいたい他人さまからも大事にされるのは、


    

環境犯罪学という学問の中に「割れ窓理論」というものが存在することをご存知でしょうか。 これは、建物の窓が壊れているのを放置すると、誰も注意を払っていないという象徴となり、他の窓もまもなくすべて壊されてしまう傾向が高いという事実から、反対に「割れた窓をすぐに修理すれば、他の窓が割られる確率は低くなる」という説を唱えた理論です。


まさに、これだと思う。



親が、大事にしていない子どもは、

他人からみたらバレている、おそらく。

無意識に伝わり、ないがしろにされがちだ。



どこか大事にされて育った側の人とは異なる影や自信のなさが無意識に引き付ける、「無下にされやすさ」



そこから生きづらさがはじまる。




排除されたこちら悪者、一人者としては、すごすご無様にやけ酒するしかない。
徒党を組める、パリピな善人様たちに叶うはずがない。



その後、2キロ先の保育園に転園し、
遠い、という難点はあったものの
そこが素晴らしい園で、
のびのび息子も過ごせただったのでまあ結果オーライだったのだが。


その繰り返しのような人生…のはずが
苦手なことないやん、だと!
すべて何でもできるパーフェクトウーマンにみえるだと(そんなことは言ってないが)
少なくとも、今は
惨めな感じがどこにも出ていないなら良かったと思う。



堂々とうつむき加減で歩いていこう。
弁当の蓋も、のせていこう。



自分自身の自分への評価と
他人の視点からみた自分という全体像は
乖離があるものだと改めて感じた今日このごろ。